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法話

正信偈に聴く④

弘経大士宗師等(ぐきょうだいじしゅうしとう) 拯済無辺極濁悪(じょうさいむへんごくじょくあく)

道俗時衆共同心(どうぞくじしゅぐどうしん) 唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ)

 

(弘経の大士・宗師等、無辺の極濁を拯済したまふ。
            道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと)

 

今月の法話は、正信偈の最後の四行です。「阿弥陀如来様のお救いを広めてくださった七人の高僧は、濁りの世の中で迷い苦しみ続けている私達を救いあげようと、この世に生まれてこられたのです。この世に生を受けた人々は、出家とか在家とかの区別なく、心を同じくして、七高僧が口をそろえてお説きくださっているお念仏を、ただただ信じさせてもらおうではありませんか」と親鸞聖人が正信偈の結びとして、私達に勧めてくださいました。

 
「信ずる心一つで救われていくのだから、どうか、一日も早く、親鸞と同じお念仏の世界に向かってほしい、そして私達一人一人が願われた仏の子どもであることを、心の支えにしてほしい」と、繰り返し叫ばれる聖人のお姿が目に浮かぶような『正信偈』の最後です。
 
聖人が命がけで勧めてくださったのは、阿弥陀如来の本願はじまり、お釈迦さま・七高僧のご苦労があって、やっと私に至りとどいてくださる信心です。
 
さて、少し前のことですが、台所で洗い物をしている妻に「今、心の底から信じられる人はいる?」と尋ねました。「そうだな~両親なら信じられるかな」と。「他には?」と尋ね返すと、「う~ん。そのくらいかなぁ~」と・・・・。 ちょっと寂しい気持ちの中、これからは、もうちょっと優しくしてあげようと反省しました(笑)。          
 
 
  自分が心で何かを信じることを信心といいます。しかし、神様や仏様を信じる事だけが信心ではありません。心で何かを支えとし、頼りにしているのも、皆、信心です。
 
「私は何も信じていません」という人も、自分の信念を支えにしているでしょう。お金や恋人、家族もそうです。人は何かを信じなければ生きてはいけません。
 
しかし、私たちは信じていたものに裏切られた時、深い悲しみや苦しみに出会うのです。本当の幸せを求めるのであれば、決して裏切られることも、無くなることもない、正しい信心を持ちなさいと、聖人がこの正信心を明らかにされたのが、『正信偈』なのです。

正信偈に聴く③

(ゆう)(ぼん)(のう)(りん)(げん)(じん)(ずう) (にゅう)(しょう)()(おん)()(おう)()

(煩悩の林に遊んで、神通を現し、生死の薗に入りて応化を示す) 


 今月の法話は、正信偈に天親菩薩のお言葉として出てくるご文です。「人間の命を終え、浄土に生まれる時、私達は如来さまと同じはたらきをする仏様になります。そして煩悩に苦しむ人間の世界に還ってきて、いろいろな姿にかたちを変えるなど、さまざまな手立てを尽くして、生まれかわり、死にかわりする人々を、浄土へと導く仏様のはたらきにつかせていただくのです」という意味です。

 仏教には「往生」という言葉があります。一般的には「高速道路の渋滞には往生した」とか、「事故で電車がとまって立ち往生だった」など、困った時などによく用いられている言葉です。

また、「隣のおばあさが昨日往生した」など、「死ぬ」という意味でも使われています。長生きした人には“大”の字を付けて、「九十才なら大往生だ」という言葉もちょくちょく耳にします。しかしこれは、本来の意味とは全く違います。

「往生」とは書いて字のごとく、「往き生まれる」という意味です。「困る」とか「死ぬ」という意味どころか、全くその反対です。

親鸞聖人がお勧めくださった、往生浄土の教えは、人間の命終わる時、私たちは阿弥陀如来様の願いに救い取られて、お浄土へ生まれ、阿弥陀如来様と同じ仏の身に生まれさせていただくのだとお示しくださいました。仏様と同じ身になるというのは、他の人々を導くはたらきを、自らの喜びとする身にならせていただくことです。 
 
  仏としてお浄土へ往き生まれられた方は、現世の迷いの中に、苦しみ悲しむ私達に「あなたも必ずお浄土へ生まれさせていただく身なのですよ。どうか忘れないで生きてくださいね」と、私達を導き、照らし続けてくださっています。

そしてそれが、仏になられた方の無上の喜びなのです。ですから、そのはたらきを正信偈には「遊ぶ」と仰せられました。

昔の浄土真宗の先人たちは、お葬式にお赤飯を炊いたこともあったそうです。残していく遺族への不安の中にも、「今度は本当の意味で遺族を救えるはたらきができる」と歓ばれたのです。

必ず死んでいかなければならない人間ではあるけれども、死んで終わりではない世界が、仏様の世界なのです。

正信偈に聴く②

(ぼん)(のう)(しょう)(げん)(すい)()(けん) (だい)()()(けん)(じょう)(しょう)()

今月の法話で聞かせていただくのは、正信偈の後半に出てくるご文です。「煩悩という悪い心に私の眼が覆われて、阿弥陀如来様のお救いの光をなかなか見ることはできないけれども、私を思ってくださる阿弥陀如来様の大悲のお心は、一時たりとも休むことなく、決して絶えることなく、いつでも私を照らし続けてくださっている」という意味です。          
 
 さて、私達が歩んでいる人生には楽しいことばかりではありません。できることなら嬉しいだけの人生を送りたいと思うのが人間の性ですが、たとえ嬉しいことや楽しいことしか起きていないときでも、その人が幸せと思っているかというと、不思議にそうとも言い切れません。
 
『仏説観無量寿経』というお経さんの中には「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ」と説かれています。田が無ければ田が欲しいと願い、手にすれば手にしたで、田の心配をしなければいけない。家が無ければ家が欲しいと思い、建てた後には、もっといい家に住みたいなど、一つの願いがかなっても、他の苦しみがまた沸き起こってくるというのです。
 
私達は何か問題があって苦しむのではなく、自らが問題を作り出し、苦しんでいるのだとお釈迦様は示されています。その中で、一番やっかいなのは、煩悩という欲や怒りの心を持つ私達は、その苦しみの種を自らが作り出していることに、なかなか気付くことができないでいることです。
 
人間は自分のしていることに間違いはない、自分は正しいと思いたいものです。まさか自分自身で苦しみを生み出しているなんて想像すらできないものです。私たちの苦しみの根本は、自分の愚かさを自覚できないことなのです。
 
しかし、仏法という阿弥陀如来様の光に照らされて、自分自身の現実の姿を直視することができた時に、本当に愚かであったのは、まさに自分自身だと気付かせていただけるのです。その気付きこそが、苦しみの人生を歩んでいた私から、喜びの人生を歩む私へと変られていくのです。
 
自らの愚かさを自覚し、どんな苦難の中にあっても「ようこそ、ようこそ」と生き抜かれた、足利源左同行が思い出されます。     
 
因幡の妙好人(お念仏を慶ばれたご門徒様)と慕われた、足利源左さんという方は、昭和五年に八十九歳のご生涯を閉じられましたが、そのご生涯は決して平穏なのもではありませんでした。
 
二人の子供を亡くし、二度にわたる火災など、何度も悲しみや苦しみのどん底を味わってこられた方でした。十八歳の時、「おらが死んだら、親さまタノメ」という父親の臨終の言葉が動機となり、聞法を重ねられ、どんな苦しみや悲しみにであっても、すべては私を導いてくださるご縁であるのだと、乗り越えていかれたのです。
 
その源左同行にこんな逸話が残っています。山で蜂にさされた時、「蜂にも針があったんだなぁ。ようこそ、ようこそ」と拝んだというのです。
 
刺した蜂を嫌うのではなく、毒針を持つのは蜂だけでない、自分自身の心の毒針で、いつも他人を傷つけながら生きている。自分だけはまともと思い上がっている私に、蜂が教えてくれたと受け取っていかれたのです。
 
すべては私を導いてくださるもの。できれば会いたくない苦しみや悲しみも私が仏法に遇わせていただく縁であったといただかれたのです。
 
如来様の光に照らされる中で、苦しみの種を作り続ける凡夫である自らを厳しく省みて、そんな私が救われていく、如来様の大悲の世界に、苦しみの種を喜びの種にかえていかれた本当の念仏者のお姿が、しみじみ感じられます。

正信偈に聴く①

 

 帰命きみょう無量むりょう寿じゅ如来にょらい  南無なも不可思議光ふかしぎこう
 
 
『正信偈』の最初の2句ですが、浄土真宗の流れをくむ私達にとって、とても親しみ深いご文です。先日、葬儀社の方が、お葬式にあたって、九州から出て来られて間もないご遺族に「ご宗旨はどこですか」と尋ねられたそうです。よく分からないといった顔をされておられたので「お経さんはどんなのでしたか」と聞くと、「帰命無量如来です」とお答えになったそうです。
 
浄土真宗や正信偈という言葉は知らなくても、お経といえば「帰命無量寿如来」と覚えているのは、このお勤めが、遠い祖父母や両親の声として伝えられ、私達に届いてくださっているからでしょう。
 
 さて、この『正信偈』は、親鸞聖人がお書きになった『教行信証』の中に出てくる、六十行百二十句のご文です。親鸞聖人が阿弥陀如来様の救いの心を深く味わわれ、そのお徳をよろこばれた偈(うた)であります。
 
まず、「帰命無量寿如来」についてですが、親鸞聖人は「帰命は本願召喚の勅命なり」とお示しくださいました。欲をおこし、苦悩の生活を送る私達に、「どうか私を頼りにし、安心してまかせなさい。」という、阿弥陀如来様のよびごえであるとおっしゃられています。そして無量寿という限りのない命をもって、一人残さずお救いくださる、如来様の慈悲(じひ)のはたらきをいわれているのです。
 
「南無不可思議光」の「南無」も「帰命」と同じ意味で、不可思議光という、私達人間がとうてい計りつくすこともできない光のような、如来様の智慧(ちえ)によって救われていくことをいわれています。つまり、限りのない寿命と、さまたげられることのない光明によって、いつでも、どこでも、誰でも、必ず救うという阿弥陀如来様のおはたらきを称えられているお言葉なのです。
 
すこし難しくなりましたが、親鸞聖人は、この最初の二句で、南無阿弥陀仏のお念仏のいわれをお示しくださっているのです。私達が普段お称えするお念仏は、「まさに子を想う母のごとき如来様の親こころによって、私の口に出ていてくださるのだ」と、親鸞聖人はよろこばれておられました。
 
子供が「お母さん」と呼ぶ時、確かに呼んでいるのは子供ですが、呼ばせているのは母の愛なのです。どんなに愚かな私であっても、決して見捨ててくださらない、如来様の願い、親ごころに包まれて、お念仏の日暮を送らせていただきたいものです。
                   合 掌

仏様からいただくご利益

我執の願い
 
今月の法話は、阿弥陀如来様のご利益についてのお話です。さて、受験のシーズンがやってきました。このシーズンの風物詩ですが、何とか志望校に合格できますようにと、わらにもすがる想いでご利益を求め、受験生や子供の両親がこぞって、神社へ合格祈願にでかけます。浄土真宗の教えにもご利益はありますが、一般に言われているご利益とは、全く性質が違ったものです。
 
例えば、この合格祈願を阿弥陀様にお願いした場合、願いをかなえてくださるでしょうか。結論から言うと、残念ながら、かなえてはくださいません。何故かと言うと、私たちの願いというのは、必ずといっていいほど、我執(がしゅう)という心が入ってくるからです。つまり、自分を中心に考えた心から生まれる願いであるからです。この合格祈願の中にも、自分が合格する為ならば、誰かが不合格になってもいいという心があるのです。それこそ、誰か他の人を落としてでも合格したいと願う心と同じだからです。
 
他にも、家族や親戚が健康でありますようにと、ご利益を願う心など、一見すばらしい願いのように思えるものにも、やはり我執という自分中心のこころが入ってきます。自分に縁のある人や、自分にとって都合のいい人は健康でいて欲しい。しかし、隣の家族の健康なんて知ったこっちゃない。自分を悪く言う人の健康なんて考えてみたこともないという姿が見え隠れしますね。一切平等に救うと誓われた阿弥陀様が、そういう我執の入った願いをかなえてくださるとは、とても思えません。
 
 
信心から生まれるご利益
 
親鸞聖人が尊敬された、善導大師という、中国のお坊さんが、阿弥陀如来様のご利益をこんな喩え話でお示しくださいました。
 
たとえば人ありて稲を求めん。まったく藁を望まざれども、
稲いできぬれば、おのずから藁を得るが如し。
 
藁(わら)とはこの世のご利益のことで、稲とは後世を願う心、つまり、阿弥陀如来様の救いにおまかせをする心を表します。稲を得るものは必ず藁を得るのと同じように、阿弥陀如来様の救いを信じる者は、おのずと、この世の望みがかなうという意味です。阿弥陀如来様のお救いとは、人間としての命終わる時には、必ず仏として生まれさせてくださるハタラキです。そしてご利益とは、そのハタラキにお任せし、真実の信心を得た人が自然と賜るもので、阿弥陀如来様に祈ってみても得られるものではありません。では、具体的に阿弥陀如来様のご利益とは、どんなものでしょうか。
 
災いが無くなるご利益
 
親鸞聖人は、御和讃の中に、息災延命(そくさいえんめい)という、災いが災いでなくなるご利益を、阿弥陀如来様の教えの中から、お示しくださいました。阿弥陀如来様の教えとは、私達が生きていく上で出会う、老いや病の苦しみ、別れの悲しみなど、全ての事柄に意味を与えてくださる教えです。
 
『癌告知の後で』という本を書かれた、鈴木章子(すずきあやこ)さんという方がおられました。この方は浄土真宗のお寺の奥さんですが、癌を患い、四十七歳という若さで、二人の子供と旦那様を残して、お亡くなりになられました。しかし、鈴木章子さんは、阿弥陀様の教えに照らされ導かれることで、癌と共に生きる人生が、これほどまでに深く素晴らしいものになるのかと驚くばかりであると、おっしゃいました。
 
まず、癌を患い、明日をも知れない我が身の中で、これさえ手に入れば最高と思っていたものが、どれだけ中途半端なものであったかを知ったそうです。財産も肩書きも旦那も子供も、いざという時にはすべて置いていかなければならない。そこで大切なのは、心にどんな宝物を抱いているかであると思ったそうです。その気付きこそが、仏法にであう導きともなったのです。そして、思うようにならない人生だからこそ、当たり前と思っていたすべてのことが、どれほど幸せなことであったかを、気付くことが出来たのです。 
 
鈴木章子さんは「癌をいただいたお陰で、至る所からご説法が聞こえてくる。肺癌で寝ているこのベッドの上が、如来様のご説法の一等席であった」と涙されたそうです。
 
苦しみや悲しみに出会ったからこそ、初めて気付くことの出来る大切なことがわかった。そして、これがあったからこそ、お浄土へ生まれてく道に出遇えたのだと、災いと思っていたこと全てを拝む心が生まれる時に、苦しみや悲しみに会ってよし、生きてよし、死んでよし、何が起きようとも阿弥陀様と一緒に生きて、共にお浄土へ生まれていくのだと思うことができるのです。それこそが、災いが災いでなくなる阿弥陀如様のご利益なのです。

今がめでたい

新しい年を迎え、年賀葉書やテレビなど、いたるところで「おめでとうございます」という言葉が使われています。無事年を越して、新年を迎えることができ、目出度いという意味でしょう。ですが、一つの区切りを越したと考えれば、毎年やってくる、お彼岸やお盆でも、無事越すことが出来たという意味では、「おめでとうございます」と言ってもおかしくないような気もします。
 
さて、ちょっと意地悪なお坊さんのお話です。テレビアニメの一休さんでもおなじみの一休宗純というお坊さんの逸話です。ある裕福な商人が、孫ができたお祝いに、何か目出度い言葉を書いて欲しい、家宝にするからと、一休禅師のもとを訪れました。こころよく引き受けた一休禅師の書いた言葉は、「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」という言葉でした。目出度い言葉をお願いした商人は、カンカンに怒って、「死ぬとはどうゆうことだ」と一休禅師を問いただします。すると一休禅師は「では、あなたは、孫死ぬ、子死ぬ、親死ぬの方がいいのですか」と聞き返したそうです。ますます怒って帰ろうとする商人に、一休禅師は続けて「親が死に、子が死に、孫が死ぬ。これほど目出度いことがあろうか、これが逆になったらどうする」と、さとしたそうです。
 
現実、順番通りに死ぬことができるかどうかわかりません。世の中には子供の葬式を出してやらなければならなかった人もいます。それこそ孫を見送らなければならなかった人もいます。そもそも、この順番というもの事態が、最初から無いのです。順番通りにいかなかった時に、その遺族は不幸という考えも、死を不幸な事して捉えていることに問題があるのです。家族や最愛の人が亡くなるということは、大きな悲しみです。しかし、死とはごく自然なことであり、生きているということは、必ず死んでいかなければならないということなのです。だからこそ、今生きている人生を精一杯生き抜いて欲しいという願いが、一休禅師の言葉の中に込められていたのだと思います。
 
私達は、生きている時間に対してあまりにも無頓着で、死をまるで遠い未来の事ように思って生きていませんか。本当にめでたいのは、今私が生きているこの一瞬一瞬。そのことに気付くことができるのが、仏法との出会いなのだと思います。

仏として生まれる命

中葉書は何のため

早くも師走を迎えました。この時期になると、いたるところから、喪中葉書(年賀欠礼)が届きます。年内に身内が亡くなった時には、皆当たり前のように出されていますが、この喪中葉書というのは、本当に、意味のあることなのでしょうか。

そもそも喪中というのは、死をケガレとして考え、忌み嫌い、死人が出た家を、喜ばしい行事などから、一定期間隔離しようとしているものです。つまり、喪中葉書は、我が家は死人を出した穢れた家であるから、慶事を辞退しますという意味なのです。なんだか亡くなった方に申訳ないような気すらしてきます。

 そうはいっても、社会的なつながりを考え、わざわざ常識外れなことはしたくないという方もいらっしゃるでしょう。とても新年を慶ぶ気持ちにはなれないという遺族の想いから、喪中葉書を出すというのも、よく分かります。しかし、浄土真宗のみ教えをいただく者としては、喪中葉書を出す意味と、亡くなった方の命について、よくよく考えていく必要があるでしょう。

命の日

仏教には、祥月命日というのがあります。この祥月という言葉は、喜ばしい月という意味です。どうして人が亡くなった日が喜ばしい日なのかと、不思議に思われるでしょうが、命日とは人間の命を終えた方が、仏として命お生まれになった日であると考えるからです。 

人間死んだらごみになるとおっしゃった方もいましたが、それではあまりにも悲しい生き方に思えてなりません。死ねばゴミになるのだから、生きている間は何をして良いという、恐ろしい考えにも繋がっていきかねません。ましてや、最愛の人が亡くなった時に、その人をゴミとして扱うのでしょうか。

仏様の教えでは、人間死んだらゴミになるのではなく、仏として生まれていくのです。だからこそ、私たちがこの人生を安心と希望の中に、謳歌していくことができるのです。そして、亡くなった方が仏となって、いつでも私の傍にいてくださるという、その心強さによって、苦しみや悲しみを乗り越えていくことができるのです。

 

ともかくもあなたまかせの年の暮れ

俳人小林一茶の句です。念仏者の俳人としても知られる一茶は、五十一歳で結婚をし、長男が生まれますが、生後一ヶ月で、病のため我が子を失います。次に生まれた長女もまた、一年で病死。悲しみのどん底の中で、この句を詠んだそうです。

この句の“あなた”とは、死んだ我が子を仏として生まれさせ、仏となった我が子と一緒に、私を見守り導いてくださっている、阿弥陀如来様へ感謝の気持ちを詠んだ句なのでしょう。

 一年を振り返った時、たくさんの方々のお蔭で今私が生きている事への感謝と、いつでも私の傍で、浄土へ生まれていく道を照らし続けていてくださる、阿弥陀如来様への報謝のお念仏とともに、新しい年を迎えていきたいものです。

恩を報ずる講(つどい)

報恩講とは、罪悪深重の私たちが、お浄土へ生まれていく道を、親鸞聖人がそのご生涯をかけて、求め伝えてくださったご苦労を偲び、私たちに伝えてくださった、阿弥陀如来のお救いを喜ばせていただく、一年で一番大切なご法要です。ですから、古来より、浄土真宗のご門徒の皆様は、毎年欠かさず報恩講を勤めてこられました。
 
 親鸞聖人がいてくださったからこそ、生きる喜びを与えてくださる如来様の教えに、出会うことができたのだと、報謝の想いの中で勤めてこられたのです。皆様に、金子みすゞさんがお作りになられた『報恩講』とうい詩をご紹介します。
 
 
「報恩講」
 
「お番」の晩は雪のころ、雪はなくても闇のころ。
くらい夜みちをお寺へつけば、とても大きな蝋濁と、
とても大きなお火鉢で、明るい、明るい、あたたかい。
大人はしっとりお話で、子供は騒いじゃ叱られる。
だけど、明るくにぎやかで、友だちゃみんなよっていて、
なにかしないじゃいられない。
更けてお家にかへっても、なにかうれしい、ねられない。
「お番」の晩は夜なかでも、からころ足駄の音がする。
 
 
金子みすゞさんの生誕の地、山口県長門市というところは、浄土真宗の教えが根付く、とてもご法儀の篤いところです。その地域の方言では、報恩講を「お番」と言うそうです。
 
報恩講には大人も子供もお寺に集まり、朝までみんなでご聴聞をされ、大きな火鉢とご法話に、大人は身も心もあたたかくなる。子供は、両親や祖父母に連れられて夜道を歩き、ワクワクしながらお寺に着くと、いつもよりも大きなロウソクやたくさんの人を見て、はしゃいでは叱られている。大人も子供もそれぞれ、心温まる嬉しさに、家に帰ってもなかなか眠れない。
 
この詩の風景は、私が幼かった頃の田舎の報恩講と似ていて、なんだか懐かしさを感じる詩です。報恩講は、私達が心安らぐ温かい御仏の教えを、みんなで聴き、みんなで慶びあう、仲間の集いです。そして、お一人お一人がその教えに照らされて、自分自身の姿をもう一度省みる期間でもあるのです。
 
蓮如上人は御文章というお手紙の中で、「報恩講には、みなさんそれぞれが、親鸞聖人の御影の前で、普段の愚かな行いを悔い改め、自分自身を見つめ直してください。それこそが、報恩講の本当の意味であり、すなわち聖人のご恩に報ずるということなのです」と、おっしゃいました。
 
普段は愚痴ばかりでる愚かな私が、まさに救われていく身であったことを気付き、慶びの中にお念仏を申す身にさせていただくのが、報恩講のご法縁なのです。 

最近親しい人を亡くされた方へ

大切な方を失われ、深いご悲嘆の事と、哀心よりお悔やみ申し上げます。亡き方は私たちにたくさんのものを残してくださいました。ご生前のご苦労はもとより、私たちはどんなに愛しい人であっても、必ず別れていかなければならないことを、自らの死をもってお示しくださっているのです。
 
いまや故人は、阿弥陀如来様のみ手に抱かれて、仏となっておられることでしょう。仏様の教えの中には倶会一処(くえいっしょ)という教えがあります。またひとところで善き人と会うという意味です。私たちも、いつか必ず人間の命を終える時が来ます。その時には、今度は仏同士として、お浄土でお会いすることができるのです。それまで、先に仏となっていつでも私たちを心配し、見守り続けてくださっているのです。
 
仏になられた方が、私たちが悲しむ姿を見て、どうしてお喜びになるでしょうか。それよりも、いつでも仏となって傍にいてくださるのだと、心の糧として、この人生を感謝のお念仏の中で精一杯生き抜いていく、そんな姿を見られた時に初めて、故人はお喜びになるのだと思います。
 
親しい人を亡くすことは、とても大きな悲しみです。しかし、その悲しみを、ただただ悲しみのまま終わらせないでください。その悲しみの中から皆さんに、心強さを気付いていただきたいのです。
 
「あなたに会えてよかった。あなたのおかげで本当に良い人生でありました。今度はお浄土でお会いしましょう。それまで、あなたの分まで、精一杯生き抜いていきますよ。いつでも見ていてくださいね」と、悲しみを心強さに変えていくことが、亡き方の死を無駄にしないということです。
 
そして、残された皆様が、この悲しみや苦しみを御縁として、仏様の教えを聞かさせて戴く身になることが何よりも大切なことなのです。
 
 
皆様に「千の風になって」という詩をご紹介します。
 
 
 
私の墓石の前に立って 涙を流さないでください。
 
私はそこにはいません
 
眠ってなんかいません
 
私は1000の風になって 吹き抜けています
 
私はダイアモンドのように 雪の上で輝いています
 
私は陽の光になって 熟した穀物にふりそそいでいます
 
秋にはやさしい雨になります
 
朝の静けさのなかであなたが目覚めるとき
 
私はすばやい流れとなって駆け上がり
 
鳥たちを空でくるくると舞わせています
 
夜は星になり、私はそっと光っています
 
どうか、その墓石の前で泣かないでください
 
私はそこにはいません
 
私は死んでないのです
 
                   (訳 南風椎)
 
 お葬儀の後、火葬をし、ご集骨をいたします。ご遺骨は故人を支えてくださった大事なお骨ですから、大切に拾わせていただいたことと思います。しかし、故人はそのお骨のある、お墓の中にはおられるわけではありません。まして草葉の陰などにおられるわけでもありません。
 
お浄土という命の故郷で仏となって、「安心して生きてください。いつでも傍にいるのですよ。どうぞ気付いてください」と、時には風になり花になり、光となって、私たちをその命の故郷に生まれる、お浄土の道へと導いていてくださっているのです。

彼岸と此岸~二河白道の喩え~

今月は秋のお彼岸を迎えます。彼岸とは極楽浄土のことで、それに対して私たちの生きている世界を此岸(しがん)といいます。この此岸から彼岸へ渡る道、お浄土へ生まれる道を、善導大師という中国のお坊さんが、『観経疏』というお経の中に、「二河白道(にがびゃくどう)」という喩えで書かれています。今回の法話で、少し皆さんにご紹介します。
 
 ある旅人が西に向かって進んで行くと、何もない荒野で火と水の河に出会います。南側に火の河。東側に水の河。河の幅は百歩ほどで、さほど大きな河ではないテキスト ボックス:  けれども、底がありません。ただ橋のように一筋の白い道(白道)はあるのですが、その道は人一人渡れるほどの細い道で、火と水が両方から押し寄せてきています。後ろ側からは賊の群れや、悪獣が自分を殺そうと迫ってきています。
 
前に進んでも、後ろに下がっても、そのまま止まっていても死を免れない状況の中で、白い道を渡ろうとすると、東から「その道を進め」という声。西から「すぐに来てください。あなたをずっと守りつづけますよ」という声がするのです。その声に従い、その道を渡ると、難をのがれ善き友と遇うことができた。という喩え話です。
 
 皆さんならこの絶体絶命のピンチにどうしますか。実はこの旅人は私たち自身の姿を現されています。彼岸と此岸を分かつ火と水の河とは私たちの苦しみの原因となる欲望や、思い通りにならない時の怒りの心を指しています。だから底がないのです。その悪の心が彼岸(お浄土)へ向かう道を閉ざしているのです。
 
地位や名誉や財産に振り回されている、盗賊のような私の心も此岸で渦巻いています。しかし、そんな私たちにお釈迦様は此岸から、「信じて進め」と励ましてくださり、彼岸からは阿弥陀如来様が「私にまかせて、信じてきなさい」と呼びかけてくださっているのです。そして、その目の前にある白道こそが、南無阿弥陀仏のお念仏なのです。阿弥陀如来様のお救いにおまかせをする道なのです。
 
つまり、私たちはじっとしていても必ず人間の命を終えていかなければなりません。そして、欲望や怒りの心を無くすことができない私たちは、その河を渡ってお浄土へ行くことはできないことをあらわされ、ただ阿弥陀如来の救いにおまかせをする道(白道)しかないとお示しくださっているのです。
 
浄土真宗のお彼岸とは先祖供養のためでは決してありません。亡き方が残してくださったご縁の中で、悟りの世界へ渡るための自らの行いを省みる期間なのです。そして、私のいのち終わる時は、お浄土へ生まれるのだという、大きな安心の中で精一杯生き抜くことができる人生に目覚め、お浄土へ向かう人生を亡き方が仏となって、私たちに薦めていてくださることを、あらためて気付かせていただく期間なのです。これからのお彼岸のご法要やお墓参りの時にも、どうぞ思い出してくださいね。                                                合 掌
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