ホーム>立徳寺だより>法話

法話

亡き方がお喜びになるご法事

 今までに何度か、皆様もご法事に参加されたことがあるかと思います。また、施主としてご法事をお勤めされた方もおられることでしょう。そのご法事ですが、一体何の為にお勤めするのでしょうか。
 
一般的にご法事は、亡き方のために行う仏教儀礼のように思われがちですが、浄土真宗では少し違います。ただ、亡き方のためを思い、亡き方がお喜びになるご法事を勤めたいという気持ちは、宗派の枠を超えて、残された者の願いでありましょう。
亡き方がお喜びになるご法事とは、一体どんなご法事しょうか。それは、多額のお布施をだして、僧侶にお経をあげてもらうことでも、豪華なお供えをすることでもありません。
 
仏となって私たちをいつでも心配し、私の喜びを自らの喜びとしていてくださる方がおられる。その心強さの中に、自分の人生を精一杯歩んでいく姿こそ、何より亡き方がお喜びになることなのです。
 
さて、毎年夏には、全国各地で夏休みを利用して、お寺での子ども会が開かれます。昨年も神奈川県西部のお寺が集まって子ども会を開催いたしました。その時のことですが、最初のオリエンテーションの時に、「二泊三日楽しんでください。帰ってお父さんやお母さんにたくさんお土産話をしてあげてくださいね」という司会者の言葉に、一人うつむいている、小学校五年生の女の子がいました。
 
子ども会が始まって、昼間はゲームやウォークラリーをしたり、夜はキャップファイヤーをしたり、もちろん一緒にお経をあげたり、仏様の話を聞く時間もありました。仏様のお話を聞いた後に、子ども達に感想文を書いてもらったのですが、オリエンテーションでうつむいていたあの女の子が、こんな作文を書きました。
 
私にはお父さんもお母さんもいません。私が生まれてすぐに交通事故で死んでしまったそうです。おばあちゃんにききました。おばちゃんは、いつもお父さんとお母さんは阿弥陀様になったんだよって言っています。だから今日お坊さん先生が、阿弥陀様がいつも見守ってくれてるんだよって言っていたので、とても嬉しかったです。お父さんとお母さんが悲しまないように、がんばって勉強しようと思います。
 
この作文を聞いて、その女の子がオリエンテーションの時にうつむいていた理由がわかりました。土産話をしたくても、話す両親がいないのです。両親がいないことで、いままで悲しい事やつらい思いもたくさんしてきたことでしょう。ですが小学校五年生で、こんなにも素直に仏法をいただいている姿に私は涙が出そうになりました。
 
その子は、亡くなった自分の両親を、今まさに、仏様のハタラキとして感じているのです。仏となって、いつでも自分のそばにいてくださるという喜びをいただいているのです。そして、その喜びをいただきながらも、私を心配していてくださる両親を悲しませないようにしたいという思いがあるのです。
 
この女の子は、これからも両親が居ないことで、寂しい思いをすることがあるかもしれませんが、きっと心強さと安心の中に生きていくことができるのだろうと感じました。あらためて私自身もその子に御説法いただいたような気持ちになりました。
 
私たちもこの小学校五年生の女の子がいただいたような心を、ご法事で感じさせていただきたいものです。それこそが、浄土真宗のご法事の本当の意味なのです。  
 
合掌

新年の始まりに

先日、法話会の後、ご聴聞されておられた方が、こんなことをおっしゃっていました。「このお話は以前にも聞かせてもらったことがありました。でも、だいぶん忘れていたところもあって、思い出しながら聞かせていただきました。やはりご法話は何度でも聞かせていただくものですね」と。
 
まさに聴聞とは、繰り返し聞き、うなずかせていただくものであります。私もそのお言葉に改めて、ご聴聞の大切さを感じさせていただきました。
さて、毎年お正月を迎えると、いつも思い浮かぶお聖典の言葉があります。『蓮如上人御一代記聞書』に書かれている、「道徳はいくつになるぞ、道徳念仏申さるべし」という、蓮如上人の言葉です。
 
これは明応二年(一四九三)の元日、蓮如上人が門弟の道徳さんに向かって語られたと伝えられている言葉です。弟子の道徳さんが、新年のご挨拶に蓮如上人を訪ねると、蓮如上人はいきなり、「道徳は何歳になったのだ、お念仏を申しなさい」と、お正月早々、厳しい言葉でおっしゃったそうです。道徳さんはとてもびっくりされたと思いますが、そのお言葉は、本当に大切なことであるからこそ、お正月の年頭の挨拶の時におっしゃったお言葉だったのでした。
 
新年を迎えると、私たちは「おめでとう、おめでとう」と祝辞を述べて浮かれていますが、蓮如上人は、「何が本当にめでたく、歳を重ねるということはど
ういうことか」を問われているのです。つまり、新年を迎へ歳を重ねるということは、いよいよ「生の意味、死の意味」をしっかり考えなければならない時期であることをさとされているのです。
 
また、「いくつになるぞ」とお言葉は、新年を迎え、今年もこのままの状態で続きたいと願っている私たちに、「いつまでも同じではない。だからこそ今を大切にしなければならないぞ」という問いかけでもありましょう。
 
そもそも、すべてが今のまま持続していくという考え自体が誤りであり、常に変わり続けているのが、私と私をとりまく世界です。肉親との別れ、仕事上での挫折、突然病気になってしまうこともあるかもしれません。大きな変化が起きるということは常に心得ておく必要があるのです。そして、どのような人生の問題にぶつかっても、如来様のお救いの中にあることを思い、お念仏申す身となってくださいと、蓮如上人がよびかけてくださったのです。
 
今を大事にすることは、今年を大事にすることであり、そのまま一年、そして生涯を大事にしていくことでもあるのです。新年の始まりに、蓮如上人のきびしい問いかけをしっかりと心に置き、聴聞に励む一年でありたいことです。
 
合  掌

ともかくもあなたまかせの年の暮れ

この句は、毎年、年の暮れになると思い出します。浄土真宗の門徒の家に生まれ、念仏者としても知られる、俳人小林一茶の一句です。この句の“あなたまかせ”というのは、他人まかせとういう意味ではなく、“あなた”とは阿弥陀如来様のことを指しています。
どんなに裕福であっても、貧乏であっても、おごることなく、卑屈になることもなく、ありのままに年を越していきましょうという意味ですから、とらわれの無い年の送り方です。
 
「ともかくもあなたまかせ」と阿弥陀如来様の救いにすべてお任せしている自分だから、私の人生は、何があっても心配のない人生というのです。
 
つまり、ただ人任せにして何もしなくていいというのではなく、自分の命の帰る場所を心得え、本当におまかせのできる救いをしっかりと心に持っているからこそ、どんな苦しみや悲しみに出合っても、人生を安心と安堵の中に生きていけるのです。そうゆう意味で「あなたまかせの年の暮れ」と、詠んだのではないでしょうか。
 
また、一茶は五十一歳で結婚をし、長男が生まれますが、生後一ヶ月で、病のため我が子を失います。次に生まれた長女もまた、一年で病死します。
 
そんな波乱万丈の人生の中で、死んだ我が子を仏として浄土へ生まれさせ、仏となった我が子と一緒に、私を見守り導いてくださっている阿弥陀如来様がいてくださると、心からその救いにおまかせをしている姿がうかがえます。
 
思うようにならない人生だからこそ、悲しみや苦しみの尽きない人間だからこそ、自らの力に頼るのではなく、如来様のご本願にお任せをしていくのが、本当の念仏者なのです。
 
年の暮れに一年を振り返った時、たくさんの方々のお蔭で今私が生きている事への感謝と、いつでも私の傍で、浄土へ生まれていく道を照らし続けていてくださる、阿弥陀如来様への報謝のお念仏とともに、新しい年を迎えていきたいものです。

本当に尊い人生とは~報恩講~

今月は浄土真宗の一番大切な行事であります、報恩講(ほうおんこう)の月です。浄土真宗を開かれた親鸞聖人の年回忌の仏事です。分かりやすく言うと、親鸞聖人のご法事です。
聖人は、そのご生涯をかけて、人間の苦しみの解決を、阿弥陀如来様の救いの中にお見つけくだり、その教えと共に、真実の慶びを私たちに伝えてくださいました。
 
浄土真宗の教えの最終的な目標は、「お浄土に往生する」ことです。お浄土とは、阿弥陀如来様が建立された世界です。このお浄土に、生きとし生けるものすべてを平等に導いてくださる、阿弥陀如来様のはたらきに感謝しつつ、力強く安心してこの世を生きていく教えが親鸞聖人の教えです。
 
お浄土に対する言葉を穢土(えど)と言いますが、今私が生きている世界です。この世界は、多くの苦しみがある世界です。仏法でいえば「生老病死」の「四苦」という苦しみです。
 
衣食住の生活の心配、老いの苦しみや病の苦しみ、そして死の不安です。この苦しみは、すべての者の苦しみであり、一人として例外はありません。そして誰もが皆、この四苦を解決することは出来ないのです。どんなに祈ってみても、どんな修行に励んでも、この四苦から離れることが出来ないからです。そこに人間の限界と悲しさがあるのです。
 
しかし、私ではどうすることも出来ない事だからこそ、まさにその苦しみに救いをくださるのが、阿弥陀如来様のご本願なのです。親鸞聖人は、そのご本願を、私たちにお示しくださったのです。「苦しみの中でしか生きていけない私たちを、阿弥陀如来様は、すべて平等に、大きな慈悲の救いによって、苦しみの無いお浄土の世界へ導いてくださるのです。
 
だからこそ、生きてよし死んでよし。健康でもよし。病気でもよし。何があっても阿弥陀如来様と一緒にお浄土へ生まれていくのだと、安心と慶びの中に人生を送ることができるのです。そして、その事に気がつくことが出来たならば、ただただ報恩感謝のお念仏を申させていただくばかりです」というのです。親鸞聖人は、それこそが本当に尊い人生であると教えてくださったのです。         
                                   合 掌

明日をも知らぬ命だからこそ

明日(みょうにち)もしらぬいのちにてこそ(そふろ)ふに、なにごとにも(もう)すもいのちおわり(そうら)はば、いたづらごとにてあるべく(そうろ)ふ。(いのち)のうちに不審(ふしん)()()くはれられ(そうら)はでは、さだめて後悔(こうかい)のみにて(そうら)はんずるぞ、(おん)こころえあるべく(そうろ)ふ。(御文章)

今月は、今から五百年前に、蓮如上人がお書きになった、お手紙を味わってみたいと思います。
 
これは、「明日をも知れぬ命ですから、何を言っても命終わってしまえば役に立たないことです。命あるうちに、不審を晴らさないと後悔することになります。」と、述べられているところです。
 
私たちは、「明日も知れぬ命」を常識として理解していても、どうしても目先の幸、不幸を一番に思いがちです。自分の死という大きな問題に目をそむけて暮らしていることは、人生をむなしく過ごしてしまう原因であり、後悔ばかり残る「いたずらごと」な人生になってしまいますよと、厳しく戒めてくださっているお言葉です。
 
私たちは、生きている限り、たくさんの悲しみや苦しみ、淋しさに出合っていかなければなりません。そして、必ずやってくる自らの死もまた、決して逃れることは出来ないものです。だからこそ、自分の人生が、ただ苦しみや悲しみの苦悩の中に終わってしまわないように、命あるうちに、「まこと」なるものを聞き定めておかなければなりません。それが「不審をはらす」ということです。
 
親鸞聖人は「念仏のみぞまこと」とおっしゃいました。つまり、どんな苦悩の中にあっても、決して変わることの無い、本当の心のよりどころとなるものが、お念仏の教えであると勧めてくださっているのです。
 
お念仏の教えは、無量の死の縁の中に生きている私でありながらも、阿弥陀如来様の救いが、そのすべてを見抜いた救いである限り、私がすでに仏のみ手の中に包まれ、命終わる時には必ず浄土へ生まれる我が身であることを教えてくださるものです。
 
そしてまた、お念仏の教えは、すべての苦悩に意味を与えてくださる教えでもあります。病気をしたからこそ、健康の幸せを知ることが出来ます。別れの悲しみの中でこそ、命のはかなさとともに、出会いの尊さに気付くこともできるのです。
 
人の優しさが身にしみて感じることができるのは、自分が深い苦しみの中にいる時です。また、苦しみの中にいる人の辛さが、心の底から共感できるのも、その苦しみを経験したことがあるからでしょう。
 
年老いたり、病気をしたり、別れの苦しみや悩みが縁となって、仏法にであっていかれる方は、苦難の中にも、そこにある限りない喜びに気付いていかれるのだと思います。出来れば会いたくないと思っていたすべての事柄が、私を導く縁であったといただくことができるのです。それが、お念仏の教えなのです。

ともにまた一つの場所で会う教え

今月は秋のお彼岸を迎えます。お彼岸とは、「かの岸」、つまり極楽浄土を表します。お浄土へ生まれ、仏となられた亡き方を偲ばせていただく中で、私がお浄土へ生まれていく道を聴かせていただくのが、浄土真宗のお彼岸です。
 
さて、以前、五十六歳の夫を突然の脳梗塞で亡くされた女性が、お葬式が終わって間もなく、お寺に訪ねてこられたことがありました。
 
その方は、「亡き主人は、今は何処にいて、どうなっているのでしょうか。今日まで私は、人間の命は必ず終わりがくることも理解していました。その命が終わればすべてが終わりであると思っていましたが、あまりにも突然で、はかない主人の死に直面して、一体何をしてあげればいいのかもわかりません。主人をどうか安らかに眠らせてあげたいと思っているのですが、どうすればいいのでしょうか」と、涙ながらに思いを打ち明けられました。 
 
私たちは、死は必ず来るものであると知りながらも、それを遠い先のことと思い込み、親しい人の死に直面した時には、誰もが起こる苦しみといえるでしょう。また愛していればいるほどその苦しみは深いものであります。
 
浄土真宗のお経の中の仏説阿弥陀経には「倶会一処(くえいっしょ)」という言葉があります。浄土真宗の墓石の中央によく彫られる言葉ですが、「ともにまた一つの場所で会う」という意味のお釈迦さまのお説法に出てくる言葉です。
 
阿弥陀経では「先にお浄土に生まれた者たちのことを想い、そして自分も浄土に生まれたいと思うのであれば、お浄土と阿弥陀如来についてよく聞きなさい。必ず浄土でともに会えます」というお説法です。
 
「倶会一処」はもちろんこの身での再会のことではありません。ですが、人としての今、この身で慶びとして実感出来るのです。それは、悲しい別れであったけれども、あなたも私も往くべき世界が一つであるという慶びや、私が亡き方を案ずる前に、仏となられた方が私を案じてくださっているという心強さを、仏法に聴かせていただけるからです。
 
私たちの人生には悲しい別れや、つらいこともたくさんあります。何が起こってもおかしくない世界に生きている我々です。しかし、歳月を重ねてもう一度その過去を振り返るとき「生きてきて良かった」「悲しい別れがあったけど、出会えて良かった」「尊いご縁であった」と言える人生を送りたいものです。それがお念仏をいただいた者の人生だと思います。
 
私の祖母は平成十一年に亡くなりました。とても優しく、畑仕事が大好きで、毎朝毎夕欠かすことなく、お寺の鐘をつくのが日課でした。そんな祖母の死は、私にとって大きなショックであると共に、この上ない悲しみでした。悲しみは今でもあります。もっと色々してあげれば良かったと思うこともよくあります。でも、その悲しみよりも大きな心強さを、今、祖母が私に与えてくれていると思う時、浄土真宗の教えを聴いてよかった。お念仏に出遭わせていただいてよかったと、心からそう思います。     合 掌

お盆に亡き方が戻ってくる?

今年もまたお盆の月を迎えました。お盆は八月十五日を中心にして行われる仏教徒の一大行事です。お釈迦様のお説きになった「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」という教えがもととなっています。そのお経の中には、お釈迦様のお弟子であった目連尊者が、亡くなった母を餓鬼道という苦しみの世界から、救い出すお話が説かれています。
 
昔ある時、目連尊者が神通力を使って、亡くなった母の居場所を探したところ、餓鬼道で飢えと乾きに苦しむ母の姿を見つけました。食べ物や飲み物を手にしても、口に入る瞬間に燃えてしまうという、苦しみの世界です。
 
目連尊者は泣きながらお釈迦様に救いを求めました。そして、「安居(あんご・僧侶の勉強期間)が終わった修行僧たちを供養せよ」という、お釈迦様の教示に従って、すべてを捨てて修行僧たちに、飯食をふるまいました。すると、目連尊者の母は、餓鬼道から天上界に生まれ変わったというお話です。
 
現在では、亡き方の霊を鎮めるといった民族信仰などが結びついて、本来のお盆の意味とは異なることが、あたりまえの様に行われています。例えば、お盆になると地獄の釜のふたが開き、亡き方が戻ってきて、三日経つと茄子の牛に乗せて地獄に送り返す。なんだか亡き方を敬っているのか、いないのか、よくわからない風習もあります。
 
では、浄土真宗のお盆とは、どのような意味があるのでしょうか。そもそも浄土真宗では、お盆だけに亡き方が帰ってくるという考え方はいたしません。
 
人間の命を終えた方は皆、お浄土へと生まれ、この娑婆世界で迷い苦しむ私たちを導く仏様になり、嬉しい時も辛い時も、共に喜び、共に悲しみ、いつでも私たちの傍で、勇気付けてくださるのだといただいております。ですから、お盆に帰ってこられるというより、今すでに私のもとに居てくださるという教えです。
 
つまり、お世話になった亡き方のために、何かをしてあげたいという気持ちは大切ですが、お盆だからお供えをして、お経を読みさえすれば、それで良いというのではありません。
 
お盆というご縁の中で、私自身が仏法を聴き、浄土へ生まれる真実の教えに目覚めていくことが大切なのです。目連尊者の母が堕ちた餓鬼道とは、いつもあれが欲しいこれが欲しいという欲望に苦しめられている者の姿です。
 
考えてみてください、まさに私たち人間の姿なのです。仏になられた方々が一番望んでおられることは、餓鬼と同じ欲望に苦しんでいる私が、仏となる道を歩んでいくことなのです。
 
ですから、お盆とは、尊い仏さまとなられた亡き人を偲ぶとともに、故人に導かれて我々の日常の生き方を省み、命の尊さや、欲を離れた施しの大切さを考える期間でもあります。本当は毎日そのような命や施しの大切さを考えるべきなのでしょうが、なかなかできないのが私たち。
 
昔から「せめてお盆の間ぐらいは殺生するな」と言われてきたのもそのような意味からです。ですから「せめてお盆の間ぐらいは考えましょう」と設けられたのがお盆の行事なのです。合掌

酒など冷やせと仰せられ候 ~蓮如上人のお言葉~

『蓮如上人御一代記聞書』という書物の中に、蓮如上人のこんなエピソードが書かれています。「寒空の中にお寺にお参りされた方々には、お酒をカンしてさしあげて、道中の寒さをしのぐように。また炎天下の中にお寺にお越しくださった方には、酒を冷やしてお出ししなさい」と、お寺にお参りになられた方々に、大変気配りをされておられたそうです。また、こうしたお酒の配慮だけでなく、お参りになられた時に、取次ぎにてまどって、長く待たせすることも嫌われたそうです。
 
このエピソードは、蓮如上人が僧侶も在家も関係なく、同じ親鸞聖人の教えに集う仲間として、ご門徒様を大切に思っておられたお姿がうかがえる内容です。当時、大きな飢饉や戦乱の世の中で、お酒はきわめて贅沢なものでした。ですが、贅沢なものであるからこそ、遠い道のりを命がけでお参りになる参詣者にとって、この上なくうれしいもてなしであり、なによりお寺が憩いの場所となったのでした。
 
仏法の中には不飲酒戒(ふおんじゅかい)という戒めもありますが、そのお酒すらも、蓮如上人は大切な接待の一つとされていました。それは、なによりもまず、ご門徒様がお寺に足を運んでくださることを喜ばれたからです。お酒を振舞うことが、ご門徒の皆様と一緒に、仏法を喜ばせていただく一つの縁となるのであれば、それもまたお釈迦様や親鸞聖人への報謝であるという上人の思いが、ひしひしと伝わってきます。
 
ところで、今月のお寺の法話会ではバーベキューを予定しております。これも皆様がお寺にお参りになる一つのご縁となればと思っています。お寺から焼肉のいい匂いがしてくるのは、いかがなものかとおっしゃる方もおられるかもしれませんが、きっと蓮如上人も許してくださることでしょう(笑)。
 
普段は忙しくてなかなか法話会にご参加出来ないという方や、初めてで行きにくいと思っておられる方々も、楽しい場所に遊びにくるような気持ちで、お気軽にお越しください。皆様が、「仏様のお話が聞きたくなった時には、あそこに行けばいいんだ。」と思ってくださる場所になれば、こんなに嬉しいことはないのですから。
 
自ら走り出んばかりに、訪ねて来られた者の手を取り、酒をふるまい、ねぎらっておられた蓮如上人のお姿を忘れず、皆様と共にお念仏を喜ばせていただきたいものです。合掌

「人間の愛」と「如来様の慈悲」

皆さんは最近「愛してるよ」と言ったことや、言われたことがありますか。私も最近はとんと聞かなくなりましたが、これは日本人の性格によるものでもあるようです。日本人は世界の中でも、とてもシャイな人種です。アメリカでは八十、九十歳になるおじいちゃんおばあちゃんも「アイラブユー」と日常茶飯事のように言っているそうです。
 
夫婦や家族、友達が仲良くいられるひけつは、相手を好きであることを声に出して伝える事が大切です。言われた方はもちろん嬉しいですが、言っている方も自己暗示にかかって、そんなに愛していなくても、言っているうちに愛おしくなってくるそうです。
 
逆にそんなに不満はないけれども、相手のいないところで、悪口ばかり言っていると、だんだん憎らしくなってしまうそうです。ちょっと恥ずかしいですが、皆様も一度チャレンジしてみてはいかかがでしょうか(笑)
 
一言で愛と言っても、人間の愛にもいろいろあります。夫婦愛、親子愛、兄弟愛、友人愛もあるでしょう。人の世には愛がなければなりませんが、その愛が深ければ深いほど、結局は悲劇的になってしまうところが、人間の悲しいところであると、仏法では説かれています。釈迦さまは愛するゆえの苦悩を愛別離苦(あいべつりく)とも怨憎会苦(おんぞうえく)とも名づけられました。
 
愛別離苦とは愛するものと別れていかねければならない苦しみのことです。どんなに離れたくないと思っていても、ともにあるべき縁が無くなった時は、必ず別れていかなければなりません。恋人に振られることもあり、死に別れていかなければならないこともあります。人間の愛は決して永遠は続かない無常さ故に、愛別離苦という苦しみを伴うのです。
 
はたまた、怨憎会苦というのは、どんなに愛していても、その愛が裏切られた時、愛が深ければ深いほど大きな憎しみに変わっていってしまう苦しみを指しています。本来、愛とは与えるものであって、貪る愛ではあってはなりません。憎しみや恨み、悲しみに変わってしまうような愛では、必ず苦しみへと向かってしまうのです。ですが、一切見返りを求めない愛、決して憎しみに変わることの無い愛というのは、とても難しいものです。
 
真実の愛とは相手を本当に大切なものと思う心から出てくる慈しみの心です。ですからそれは決して憎しみには変わるはずがないのですが、人間の愛とはどうしてもそこに我が入る愛でありますから、真実の愛とは言えなくなってしますのです。男女の愛一つ取ってみても、恋愛のこじれで起きた殺人事件というのもよく耳にします。
 
誰よりも愛していたはずなのに、その人を手にかけてしまうのです。愛といいながら、結局人間の愛の中心には私がいるのです。他にも親子愛というのもあります。たしかに親が子を育てているときの献身的な愛情は、仏様の慈悲という言葉に一番近いかもしれません。しかし、その愛ですら、他人の子供までは及びませんし、それどころか、わが子可愛さのあまり、他人の子供をねたんだりすることさえあります。
 
せめて親子や兄弟、夫婦だけでもいたわりあい、守りあって、愛と安らぎの中で過ごしたいものですが、現実にはそれすらも、憎しみ悲しみをもたらす原因になってしまうことが多いのです。まさに仏法に説かれている通り、誰かを愛してあげたい、愛したいと思っても、それがなかなかできない愚かなわが身を知らされるばかりなのです。
 
人間の愛に対し如来様の慈悲とは、愚かな人間に差し伸べられた愛です。無条件に他を思い、他の苦しみ悲しみを我が心の痛みとして、その人の幸せを自らの願いとしてゆく心は、如来様の慈悲でなければできないのです。人間の愛には限界がありますが、変わることのない如来様の慈悲こそ、真実の愛といえるのです。
 
如来様の真実の慈悲を知る時、人間の愛の限界や自分の無力さを感じながらも、希望と心強さをいただくことができるのです。そして、そんな人間も、命が終わるその時には、如来様と同じ、真実の慈悲のハタラキをする仏様とならせていただいて、その慈悲をもって他のものを愛し抜くことができるのです。
 
昔の浄土真宗のご門徒の方は、お通夜にお赤飯をたきました。残されていく遺族、家族は心配であるけれども、今度は仏となって、本当の意味で家族を愛し、救うことが出来るのだから、こんな嬉しいことはないじゃないかと、亡き方の死を悲しみながらも、仏に生まれられていかれたことを喜ばれたのです。
 
仏様の慈悲とは、愛すらも自らの苦しみの種となってしまう愚かな私達だからこそ、見捨てることが出来ないと包みこんでくださり、真実の愛に目覚させ、導いてくださるお救いなのです

籠を水につけよ

今月の法話は、蓮如上人のお言葉より味あわせていただきます。

 

そのかごをみずにつけよ、がみをばほうにひてておく べき 

                            (蓮如上人後一代記聞書)

 

これは五百年も前のことですが、ある人が蓮如上人に自分の心を素直に告白して言いました。「仏様のお話を聞かせていただき、その場では有り難く尊いものであると思っていても、何日か経つと、まるで籠からすくった水がぼたぼた落ちるかのように、仏法の有り難さも忘れて、元の状態に戻ってしまいます。どうすればいいのでしょうか。」

 
そう言われた問いに対して、蓮如上人は「そのかごを水につけて、我が身を仏法に浸しておきなさい」とお答えになりました。つまり、籠に水を入れようとするのではなく、籠自体を水に浸しておくかのように、自分自身を常に仏法に浸しておけばいいのですと、おっしゃったのでした。
 
皆様もこんな思いを持たれたことはありますでしょうか。私にはこのお言葉が、「忘れてしまうことを悲しむよりも、聴くことを楽しみなさい」と蓮如上人が仏法の正しい聴き方を、優しくさとしてくださっているようにも思えます。
 
また、「籠を水につけよ」とおっしゃったお言葉の中には、自分が籠ですくうのではく、籠に水が入ってくる様子を、他力の信心として示されているようにも思えます。
 
その他力の信心に対し、自力の信心というのは、自己のはからいの中で仏法を捉えようとすることです。ところが、自分の心はなかなか思い通りになってくれるものではありませんから、「考えるな」といっても余計なことを考え、「信じなさい」と言われても信じきれないところがあります。「任そう」と自分に言い聞かせても、任せきれていない自分があったりします。結局どこか不安を抱き、安心していることが出来ない。これが自力の信心であり、「籠に水をくむ」行為なのです。
 
そうではなく、蓮如上人がお示しくださったのは、苦悩する私を丸ごと包み込んで、「苦しい時も悲しい時も、どんな時でも私がそばにいるのですよ。人間の命終える時には、私が必ず浄土という命の故郷へ連れていきますよ。」と常に私を照らしてくださる、阿弥陀如来様の慈悲のお心をそのまま喜ばせていただきなさいと教えてくださったのです。それが他力の信心であります。その安心をいただくことが「水に籠をつける」ということなのです。
 
蓮如上人は、常に今の自分が、阿弥陀如来様の無辺の慈悲に包まれていることを感謝されながら、八十五年のご生涯を過ごされました。
 
いつどこでどんなことがあろうと、私は今すでに仏様の大きな慈悲に抱かれている身なのだという、絶対の安心の上に築かれていく人生こそが、浄土真宗の教えに生きる姿だと言えるのです。
 
一年後のお金儲けや、何ヶ月後の病気の全快や、老後の保障を願うのが浄土真宗の教えではありません。無常の世にあって、今日一日を生かされている自分を見つめながら、感謝の中に思いを新たにして行くのがお念仏の日ぐらしなのです。     合掌
ページ上部へ