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法話

お仏壇について

 人口の流動化や核家族化などの社会の変化によって、最近では、何世代にもわたって同じ家に住むことがめっきり減り、次々と新しい家が建ち、また引っ越しも頻繁に行われています。そうして移り住んだ家には、特に若い世代を中心に、昔はどの家にも必ずあったお仏壇が、安置されていないことが増えてきました。
 
 「なぜお仏壇を置かないのですか」と尋ねてみると、不機嫌そうな顔で「まだ誰も死んでいませんから!」とか「お仏壇は田舎にありますから」といった言葉が返ってきます。ですが、“誰も死んでいない”というのは、よく考えてみれば変な話で、“私”につながる数限りない先祖の方が亡くなっていたはずです。
 
 それはさておき、こうした言葉の裏には、お仏壇が今生きている家族の誰かが死んで初めて必要になるというものであり、ご先祖にしても、子孫の誰か一人(多くの場合、長男)が面倒を見れば事足りるという認識があるようです。さらに言えば、お仏壇は“死者やご先祖をおまつりするためのもの”と思っておられる方が多いようです。
 
 しかし果たしてそうでしょうか。お仏壇というのは文字通り、仏様をご安置する壇のことです。仏様とは、ご本尊である阿弥陀如来様のことです。私達のこだわりや苦悩によって、自己を見失いがちになる私をしっかりと抱きしめて、決して崩れることのない安らぎを与えて下さる仏様です。お仏壇は、そうした私の心のよりどころとなり、家庭の精神的基盤となって下さる阿弥陀如来様をご安置するためにもうけるのです。いじめ、家庭崩壊などの心の問題が山積みしている今、家族そろって阿弥陀様に手を合わせることがどれほど心豊かな家庭生活につながるかわかりません。
 
 また、ご門徒さんからこんな質問を受けたこともあります。「これまで、お仏壇にはご先祖が入っておられるとばかり思っていました。確かに阿弥陀様も大事ですが、ご先祖も大切に思っています。お仏壇が先祖をまつる所でないとすると、いったいご先祖は何処におられるのですか」と。
ご先祖様をとても大切にしておられるご門徒さんなのですが、どうしても阿弥陀様とご先祖様を別々の存在として捉えておられるようようです。
 
 「先祖をまつる所ではない」というのは、例えば霊魂のようなものがお仏壇の中に入っていて、その先祖の霊魂を慰めるというものではないということです。 それでは、ご先祖様はどうなったかというと、阿弥陀様のお浄土に生まれられ、阿弥陀様と同じはたらきをする仏様になられたと味わうのです。
 
 したがって、お仏壇は、ご先祖を拝むというよりは、ご先祖が還られたお浄土を偲び、ご先祖をお救いくださった阿弥陀如来様のご本願のお心を味あわせていただくのです。
 
 さらに、ご先祖の願いを聞くと、何も「自分に手を合わせてくれ」と思ってはおられないでしょう。むしろ「真実の親様である阿弥陀如来様のお救いを信じ、力強い人生を歩んでほしい」とねがわれていることでしょう。そうしたご先祖様からの願いを聞き、阿弥陀如来様に心から手を合わすことが、すなわちご先祖様を敬い、感謝することになるのです。

往生は弥陀にまかせて

 先月、和歌山県白浜にある浄土真宗のお寺に、お彼岸法要の布教で行っていきました。温泉街だけに、沢山のお土産屋がずらりと立ち並んでいました。その中で、ふと目にとまった不思議なお土産。それは、持っていると必ず極楽浄土に行くことが出来るという、切符のようなものでした。売れるはずもなく、ほこりをかぶっていましたが、手にとって見ていると、お店の人は必死で私にすすめてくるのです。そんなに私は困っているように見えたのでしょうか。皆さんならこのお土産を買いますか。
 
 さて、昔、広島県に住んでおられた方のお話しです。広島出身の荒森さんは、二十九歳の時に、自動車の運転手をしているうちに、過労で胸をわずらい、余命があとわずかである事を医者に宣告されました。それからというもの、自分のいのちの往く末を、よくよく仏法に聴聞されるようになり、お念仏を喜ばれるようになった方だったそうです。
 
 病気が進み、重体となった時、一人の祈祷師が「病気を治す祈祷をしてあげよう。必ず治してみせます」とやってきました。応接に出た弟さんは「先祖代々うちは浄土真宗だから、そんな教えは聞く必要ない」といって、追い返しました。これを病床で聞いていた荒森さんは、弟さんに「それは乱暴だ。他人の親切に失礼があっていけない。お通しして。」と言うので、祈祷師が呼び戻されました。そして荒森さんは「私は浄土真宗のみ教えをいただいて、この世もあの世のことも、何の不安もなく生きさせてもらっております。因果の道理もしらされました。死は誰もそむくわけにはいきません。いくら自分であせったところで、それで治るわけではありません。それに私の病気はとても進んでいて、今の医学で力を尽くしても治らない状態になっておりますから、祈祷してもらっても、かえってあなたの教えの迷惑になりますから、どうか、もうおいでくださらないように。」と丁寧に挨拶をして、紙に包んだお礼を渡しました。そして弟さんに、「麦を食べてみて、はじめて米の味わいがよく分かる。私達は、浄土真宗という素晴らしい教えに育てられ、ありがたいことだですねぇ」としみじみ喜んだそうです。
 
 いよいよ病が進み、弟さんから「往生は大丈夫か」と聞かれると、にっこり笑って、句を詠まれたそうです。 
 
自(おの)が決め、ゆくはこの世の ひとり旅、後生は弥陀に、まかせてぞゆく
 
 阿弥陀如来様と共に生きる念仏者の喜びが聞こえてきます。
二十九歳という若さで、往生の素懐をとげられた荒森さんが、仏法の教えの中に、自分のいのちの往く末をしっかりとみつけ、大きな安心をいただいているお姿です。
 
 人間の死は不幸な事であると決めつけ、自分のいのちの終わりの事を考えることは縁起が悪いと、目をそむけていく人生は、きっと不安の中に終わっていくことになってしまうのではないでしょか。自分のいのちの問題を解決して、安心の中に生きる人生を歩んでまいりたいものです。
 

何が災いで何が幸福

 先日、買い物に行ったお店の軒先に「除災招福」と書いてあるお札が貼ってあるのを見かけました。仏典の中ではあまり用いられた例はありませんが、字の通り「災いを除いて、幸福が訪れる」という意味でしょう。一見、とても素晴らしい文字の様に思えるのですが、ここでよく考えてみなければならないことがあります。それは「何が災いで何が幸福なのか」ということです。私たちは幸・不幸をどんな時にどんな風に感じているでしょうか。
 
 ある人の体験談です。宝くじを買ったら十万円が当たりました。思わぬお金が入ったので「今晩は僕が御馳走してあげる」と会社の同僚数人を誘いました。上機嫌で一杯やっていると、たまたま同じ会社の人が一人その店にやってきたので「君も来たのか、一緒に飲もう」と合流しました。すると「帰ろうか」とういう頃になって、後から合流した人が「今日はいいことがあったから、ここは僕が全部御馳走する」と言い出しました。一体どんないいことがあったのか、その理由をなかなか言わなかったのですが、しつこく聞かれお酒も入っていたので、彼はついに本当のことを言いました。「実は宝くじで一千万円が当たったんだ」。それを聞いて、さっきまで上機嫌だった人の酔いがいっぺんに醒めました。「いつ、どこで買った」と聞くと、同じ売り場で一日違いでした。それを聞いて思わず「くそっ、俺はなんて運が悪いんだ。損をした」とつぶやいたそうです。
 
 考えてみてください。その人は決して損をしたわけではありません。三百円で買った宝くじが十万円になったのですから。ところが、ほぼ同じ条件で一千万円当たった人を見ると損をした気分になるのです。これは、自分の幸・不幸を他人と比べて感じているからです。つまり、私たちの願う幸せとは、常に他人より幸せ、もっと言えば他人の不幸が前提になった幸せです。もしかするとそれが私たちの思う幸せの正体なのかもしれません。
 
 自分中心の幸せや、相対的な幸せは決して本当の幸せとは言えません。幸せと思って今まで頼りにしてきたものも、いつまで支えになるとは限りません。若さも健康も、地位や名誉、財産。家族や友人も、いつまでも付いて来てはくれません。いつか必ず失うものを頼りにしていては、結局は絶望だけが残ってしまいます。決して無くなることがなく、いつでもどこでも、いのちの底から支えてくれるものでなければ間に合わないのです。 
 
 親鸞聖人は、その頼りとするものは阿弥陀如来様のお救いであり、「畢竟依(ひっきょうえ)」究極のよりどころであるとお示しくださいました。如来様の願いと「除災招福」。似ているようで、根底には大きな違いがあることを考えていかなければなりません。   合掌

絶望しない願い

 いつまでも長生きしたいですねぇ」、「でも歳はとりたくないですねぇ」、ご年配の方からよく耳にする言葉です。ほとんどの方がそう思っておられることでしょう。でも、よく考えると、歳をとらずに長生きするなんて、どうやっても不可能ですよね。それなのに私たちは別々に「長生きしたいですね~」と言われると「うんうん」とうなずき、「歳はとりたくないですよね~」と言われても「うんうん」と共感しています。よく考えれば矛盾していることなのに、何の矛盾も感じないで「そうだそうだ」と思っています。そして、この実現不可能な願いを持つせいで、自分の人生に落胆したり、絶望したりしているのだということに、私たちはなかなか気づくことが出来ません。
 
 お経には「欲が苦を生む」と、説かれてありますが、自分の苦しみのほとんどは、自分の欲望が作っているという教えです。欲がかなわないから苦しみを感じるのであって、欲がなければ、かなわないことは苦しみにはならないのです。当たり前のことなのに、なかなか当たり前と思えないところに、私たちの迷いの姿があるようです。
 
 親しい人との別れもおなじです。自分の命も相手の命も、明日生きている保証はどこにもないはずなのに、今いきていることや一緒に居られることが当たり前と思っていては、いざ別れなければならない時には、大きな苦しみを感じるのです。
そんな私たちが、迷うことなく、人生に絶望することなく生きていける願いがあるとすれば、それは阿弥陀如来様のご本願という願いの中に生きる以外にないように思います。
 
「あなたのいのちを私にまかせてください。私はすでにあなたのいのちを包みこんでいます。いつでもあなたのそばで、そのいのちを育んでいます。必ずあなたを苦しみの無い、仏さまという本当の幸せに導いてみせます。そうすればあなたの人生は決して絶望に終わっていく人生にはなりません」と、力強くよび続けていてくださるのが如来様のご本願です。
 
 悲しいことや苦しいこともあった、恥ずかしいことや情けないこともあった。でも如来様のご本願の中で、生きて良し、死んで良し。良いことが出来ればいいけれども、出来なくてもよし。何があろうと如来様がそばにいてくださるのだと、しっかり受け取ることが出来た時に、絶望の無い人生を頼もしさの中に精一杯生き抜いていけるのではないでしょうか。 合 掌

いつもいっしょのほとけさま

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 先日、子ども会でお聞きした布教使さんのお話をご紹介します。
 
 順ちゃんのお母さんは、順ちゃんが3歳の時、病気で亡くなっています。ですから、お母さん顔を覚えていません。順ちゃんが小学校一年生になった時のことです。お母さんに会いたくて会いたくてたまらない順ちゃんは、ある日家を飛び出し、知らない町までどんどん歩いていきました。「お母さんは遠いところに行ったんだよ」と聞かされていたからです。「お母さーん、僕のお母さん、どこにいるのー」順ちゃんがそう言いながら歩いているのを見かけた町の人が、迷い子だろうと交番に連れて行ってくれました。その頃、順ちゃんの家では大騒ぎです。5歳上のお兄いちゃんが手分けをして探してくれました。お友達に聞くと、「今日はお母さんに会いに行くんだ」とお昼休みに順ちゃんが話していたと言うではありませんか。あたりは暗くなり、途方に暮れていた時、交番から「順ちゃんを預かっています」という知らせがありました。お父さんとお兄ちゃんは急いで交番へ向かいました。走りながらお父さんは、亡くなる前にお母さんが言っていた言葉を思い出していました。交番に迎えに来たお父さんを見るなり、順ちゃんは「お母さんを探していたんだよう、お母さんはどこにいるんだよう。会いたいよう・・・」後は言葉になりません。お父さんは、順ちゃんを力一杯抱きしめ「お兄いちゃんも順もよく聞いてくれ。お母さんは順が三つの時に死んだんだよ。ここに来る途中、お母さんがお前たちに残した大切な言葉を思い出したよ」。お父さんは、お母さんが残した言葉をゆっくり話し始めました。
 
『もっと生きて、あなたや子ども達と一緒にいたい・・・。だけど、もう長くないと思うの。私がいなくなって、あの子達が寂しい思いをすることを考えると、かわいそうでやりきれなくて・・・。きっと私を探すと思うの。その時にはこう言ってあげてね。お母さんは仏様の国に生まれて、“なもあみだぶつ”っていう仏様になってるって。だからいつでもどんな時でもあなた達と一緒にいるよ。寂しい時も、嬉しい時も、つらいことが会った時も、“なもあみだぶつ”って言ってごらん。お母さんはどんなことがあってもあなた達と一緒だよ』お父さんも顔をくしゃくしゃにして泣きながら、お母さんの言葉を子ども達に伝えました。
 
 その時順ちゃんの口から初めて「なもあみだぶつ・・・」とお念仏が出ました。それから順ちゃんは、お念仏をすると、なんだかお母さんに抱っこされて護られているようで、嬉しくて何度も何度もお念仏をするようになりました。「お母さんは、探しに行かなくても、いつも僕と一緒に居てるれる仏様になったんだ」と、順ちゃんは勇気と元気が出たみたいです。 合掌
 

死んでからいい所へ生まれる?

 あるお葬式のことです。お葬式の最後に、ご遺族の方々が、お棺に花を添えて、「最後のお別れ」をしておられました。その時に、ご遺族の中のある方が、亡くなられた方の耳元に向けて、こうおっしゃいました。「いい所に生まれてよ」と。
 
 ご病気などで長い闘病をして亡くなられた方などの場合、ご遺族は「もう苦しまなくていいのだよ」との思いを告げようとされておられます。ですから、この「いい所」という言葉には、この世で経験したような苦しみがない「楽なところ」という意味が込められているようです。
 
  また、若くして亡くなられた方の場合、ご遺族は「残りの人生をまっとうさせてあげたかった」という思いでいっぱいであるからこそ、「いい所」という言葉には、「楽しい世界」へという意味が含まれていることでありましょう。
 いずれも、ご遺族の心中を思いますと、当然のことであると思います。一般に語られる天国や極楽浄土のイメージは、これらの思いからきたものに違いありません。ですが、これだけに終わってしまい、お浄土は「死んでから行くいい所」では、生きている私たちの現在に関わっているとは言えません。つまり、今の私には関係ないということになってしまうのです。
 
 また、昔に先輩僧侶と一緒にお葬儀を勤めた時、子どもさんを亡くされた女性が、「あの子はいったいどこへ行ったのでしょうか」と、先輩に質問されました。先輩は、「あなたはどこへ行きたいのですか」と尋ねられると、じっと考えておられたその女性は、「子どもとおなじところへいきたいです」とおっしゃいました。すると先輩は、「あなたが仏様にならなくては、誰があなたの子どもかはわかりませんよ」とおっしゃいました。この言葉を聞いて、その女性は、それから仏法を聴かれるようになられたそうです。
 
 私たちがお浄土に生まれて行くというのは、私が仏様になっていくことであり、今の私に関わる世界なのです。仏教は「仏様の教え」であるとともに「私が仏になる教え」でもあります。お釈迦様がご出家されたのは、悟りを求め、真理に目覚めるためのことでした。そのお釈迦様以来、仏教の教えを聞く人々は、それぞれ、国や歴史は違っても、自らが人間の苦悩の根本を解決する真理に目覚め、同時に他の人々を慈しむこと、つまり、仏様に成ることを目的とされました。
 
 しかし、私たちは、どれほどこの「仏に成る」ことを望んでいるでしょうか。悩んでも苦しんでも、その苦悩の根本を見ようとせず、ただ目の前の悩みや苦しみが解決さえすればいい、自分が楽になりたい。楽しければそれでいいと思うだけであるように思えます。そういう思いの延長線上だけでお浄土を想えば、お浄土とは「死んでから行くいい所」でしかありません。今の私を見つめ、「私が仏に成る」といことを離れては、お浄土の世界も意味が無いように思えます。合 掌

"読経"の意味

 先日、ある他宗の寺院の前を通りかかった時、境内に停めてある真新しい車にむかって、僧侶の方が読経していました。傍らには、その車の持ち主であろう人物が、合掌の姿勢のまま頭を下げて立っておられました。最初は、何をしているのかわかりませんでしたが、通り過ぎてから、あれは「お払い」をしていたんだなと気がつきました。
 
  私たち浄土真宗では「お払い」や「祈祷」を行いませんので、何か奇妙な場面を目撃したような気持ちになりました。そして、「お払いの必要があるような車なら買わなきゃいいのに」とも思いました。私が奇妙な場面と感じたのは、現代の粋を集めたといっても過言ではない、最新型の自動車にむかっての読経です。これがお墓やお仏壇にむかっての読経であれば、何とも思わなかったでしょう。しかし、よくよく考えてみますと、お墓やお仏壇にむかっての読経も、一つ間違えば奇妙なものになってしまいす。
 
 お経はお釈迦様のご説法を文字にしたものです。日本へは中国語に訳されたものが多く入ってまいりましたが、私
たち浄土真宗では、特に「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」と呼ばれる三つのお経を大切にしております。そし
て、これらのお経に説かれている阿弥陀如来様のお救いを聴き、その救いを慶びとさせていただくのが私たち浄土真
宗の読経であります。
 
 しかし、現実には私たちの中にも読経を何か呪文のように受け取り、お墓やお仏壇にむかって「禍がありませんよ
うに」とか先祖の鎮魂や慰霊のためのものと考えている人も少なくはありません。もう一度浄土真宗のお経の意味を
よく味わい、お仏壇やお墓の意味も併せて考えていかなければなりません。
 
 まず、お経に説かれているのは、私たちの苦しみや悲しみの根本は、自分の中にある煩悩が原因であることが説か
れてあります。普段の生活の中で、すべてが自分の思い通りならないことは、当たり前のことであるにも関わらず、
思い通りにならない時は、そこに怒りや苦しみを感じます。親しい人との別れの悲しみも、そこには我執という煩悩があ
るのです。愛する人には、ずっと傍に居てほしい、変わらないでほしいと願いますが、それも永遠に続くはずがない
のが真実です。人間として生まれた限り、いつか必ず命を終えていかなければならないのですから。まして命には順
番すら決まっていないのです。頭では理解していても、別れに直面した時には、深い悲しみを抱くのが私たち人間です。そんな私たちに説かれた阿弥陀如来様のお救いには、人間の命終わって終わりでない世界があることも説かれてあるのです。必ずまたお会いすることの出来る世界があることを聴かせていただく時に、初めてその苦悩を超えていくことが出来るのではないでしょうか。それがお経の本当の意味なのです。
 
 ですから、お墓やお仏壇での読経は、私たちから亡き方への読経ではなく、阿弥陀如来様や先に仏となられた方からの願いやメッセージを、私たちが心強さとしていただくためのものなのです。 合掌

最後だとわかっていたら

毎月のお寺の法話会に行けば、いつか死んでいかなければならないと聞かされ、嫌になってしまうかもしれません。いつか誰も来なくなってしまうのではないかと心配になる時もありますが、月に一度だけでも、自分の死について考える時間があってもいいのではないかなと、思いもします。自分の死を自覚して生きていくということは、後悔のない一日を生きるということでもあります。
みなさんに「最後だとわかっていたら」という詩をご紹介します。この詩は今から約十年前、二〇〇一年九月十一日のアメリカ同時多発テロ事件で三千人もの人が一瞬で命を落とした事件の時に、貿易センタービルに1機目の航空機が激突した後、救助のため、最初にツインタワー内に突入した数百人のレスキュー隊の内の一人で、今も行方不明の消防士(二十九歳)が生前に記したものを翻訳した詩です。
 
あなたが眠りにつくのを見るのが最後だとわかっていたら、わたしはもっとちゃんとカバーをかけて、神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう。あなたがドアを出て行くのを見るのが最後だとわかっていたら、わたしはあなたを抱きしめてキスをして、そしてまたもう一度呼び寄せて抱きしめただろう。あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが最後だとわかっていたら、わたしは その一部始終をビデオにとって、毎日繰り返し見ただろう。あなたは言わなくても分かってくれていたかもしれないけれど、最後だとわかっていたなら、一言だけでもいい、「あなたを愛してる」とわたしは伝えただろう。たしかにいつも明日はやってくる。でももしそれがわたしの勘違いで、今日で全てが終わるのだとしたら、わたしは今日、どんなにあなたを愛しているか伝えたい。そして私達は忘れないようにしたい、若い人にも、年老いた人にも、明日は誰にも約束されていないのだということを。愛する人を抱きしめるのは今日が最後になるかもしれないことを。明日が来るのを待っているなら今日でもいいはず。もし明日がこないとしたらあなたは今日を後悔するだろうから。微笑みや抱擁やキスをするための、ほんのちょっとの時間をどうして惜しんだのかと、忙しさを理由に、その人の最後の願いとなってしまったことを、どうしてしてあげられなかったのかと。だから今日、あなたの大切な人たちをしっかりと抱きしめよう。そして、その人を愛していること、いつでもいつまでも大切な存在だと言うことを、そっと伝えよう。「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝える時を持とう。そうすれば もし明日が来ないとしても、あなたは今日を後悔しないだろうから。
 
みなさんどんなふうに感じましたか。毎日死ぬかもしれないと思って生きるのは、ちょっと辛いことかもしれません。ですが、その真実に目をそむけて生きていると、きっと後悔してしまうでしょう。
 
この詩にもありましたが、言葉一つにしてもそうです。謝るのがくやしくて、ごめんねが言えなかったり、照れくさいから、ありがとうが言えなかったたりした時に、後で言えればいいですが、伝えることが出来なくなったとき、どれほどの後悔をしてしまうでしょうか。
 
だからこそ、死はまさに今自分のこととして考えていかなければいけません。死を今の自分のこととして考えることが出来た時に、はじめて、この一瞬一瞬を大切に生きることができるのです。そして一つ一つの出会いを大切にできるのだと思います。
 
死を考えることは、決して縁起が悪いことではありません。それどころか。自分の人生を真剣に考えていくうえで、一番必要なことなのです。
 
         合 掌

命の帰る場所

なごりおしく おもえども 娑婆しゃばえんきて
  からなくしてをはるとき 、かのへはまゐるべきなり

                 『歎異抄たんにしょう』第9条

親鸞聖人のお言葉を遺された歎異抄の一文です。「死んだら終わり、生きているうちが花」と言われる方がいますが、それではあまりにむなしいいのちの在り方に思えてなりません。確かにこの世に生をうけた限り、誰もが死をまぬがれることはできません。しかし親鸞聖人は、娑婆(人間界)の縁が尽きた時は阿弥陀如来様のお救いによって、間違いなく浄土へ往生(往き生まれる)していくのだとお示しくださいました。
 
これは、阿弥陀如来様の願いであり、仏となられた亡き方からの願いでもあります。「あなたのいのちも、私のいのちも、浄土へ生まれる尊いいのちをいただいているのですから、その尊いいのちを精一杯生き抜いてください」という願いです。決して「死んだら終わり」のむなしいいのちではなく、私達のいのちは、お浄土へと続いているいのちであったと気付かせられる教えです。
 
私には小学校一年生になる娘がおります。だいぶんしっかりしてきました。ある日、テレビでアフリカ難民のドキュメント番組があり、娘と二人で見ていました。その晩、布団の中で娘が「お父さん、あの子まだ赤ちゃんなのに、死んじゃったの」と質問をしてきました。私が「そうだよ。大人になる前に死んじゃう子もいるんだよ。お父さんもいつ死ぬかなんてわからないんだよ」と答えると、泣きだしてしまいました。
 
そこで「お父さんが先に死ぬか、あなたが先に死ぬかもわからないけど、その時には阿弥陀様にお浄土へ連れて行ってもらうんだよ。お浄土で仏様にならせてもらって、いつでもみているから、心配する必要ないんだよ。みんないつかは死んでいかなきゃいけないけど、お浄土で必ずまた会うんだよ。」と、私が幼い頃、祖母に聞かされた言葉を娘に伝えました。娘は目に涙をいっぱいに浮かべて「うん。わかった阿弥陀様はいい人なんだね」と、なんとも子どもらしい返事をしてきました。
 
そして、「そんな阿弥陀様に有難うございますって言う時には、南無阿弥陀仏って言うんだよ」と、二人で布団の中でお念仏を申させていただいたことでした。人間の死を娘に話す事は、少しかわいそうだったかなと後で思いましたが、人間の本当のいのちの姿とは、まさに無常であり、順番通りの保障なんてどこにもありません。
 
だからこそ、私達のいのちの帰る場所を、娘には知っていて欲しかったのです。 お浄土とは、往く者にとっても、残される者にとっても、生と死を超えていのちを通い合わせることができる世界なのです。自分の命の行く末をしっかりと仏法に聞き定め、死んで終わりでない世界があることを、本当の心の慶びとしていただいてまいりたいものです。

今がめでたい

新しい年を迎え、年賀葉書やテレビなど、いたるところで「おめでとうございます」という言葉が使われています。無事年を越して、新年を迎えることができ、目出度いという意味でしょう。ですが、一つの区切りを越したと考えれば、毎年やってくる、お彼岸やお盆でも、無事越すことが出来たという意味では、「おめでとうございます」と言ってもおかしくないような気もします。
さて、ちょっと意地悪なお坊さんのお話です。テレビアニメの一休さんでもおなじみの一休宗純というお坊さんの逸話です。ある裕福な商人が、孫ができたお祝いに、何か目出度い言葉を書いて欲しい、家宝にするからと、一休禅師のもとを訪れました。
 
こころよく引き受けた一休禅師の書いた言葉は、「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」という言葉でした。目出度い言葉をお願いした商人は、カンカンに怒って、「死ぬとはどうゆうことだ」と一休禅師を問いただします。すると一休禅師は「では、あなたは、孫死ぬ、子死ぬ、親死ぬの方がいいのですか」と聞き返したそうです。ますます怒って帰ろうとする商人に、一休禅師は続けて「親が死に、子が死に、孫が死ぬ。これほど目出度いことがあろうか、これが逆になったらどうする」と、さとしたそうです。
 
現実、順番通りに死ぬことができるかどうかわかりません。世の中には子供の葬式を出してやらなければならなかった人もいます。それこそ孫を見送らなければならなかった人もいます。そもそも、この順番というもの事態が、最初から無いのです。
 
順番通りにいかなかった時に、その遺族は不幸という考えも、死を不幸な事して捉えていることに問題があるのです。家族や最愛の人が亡くなるということは、大きな悲しみです。しかし、死とはごく自然なことであり、生きているということは、必ず死んでいかなければならないということなのです。
 
だからこそ、今生きている人生を精一杯生き抜いて欲しいという願いが、一休禅師の言葉の中に込められていたのだと思います。私達は、生きている時間に対してあまりにも無頓着で、死をまるで遠い未来の事ように思って生きていませんか。本当にめでたいのは、今私が生きているこの一瞬一瞬。それに気付くことができるのが、仏法との出会いなのです。
 
 
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