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法話

再びまた会える世界

 突然ですが、皆さん死について考える事はありますか。「縁起が悪い事を言わないで」とおっしゃる方もおられるかもしれません。ですが、人間の命の本当の姿は、明日の命の保証なんて何一つないものです。生まれたからには必ず死んでいかなければなりませんし、出会ったからには必ず別れがおとずれます。しかし、そのことに目を背けて生きていては、自分の死や、親しい人との別れがおとずれた時に、何も命の解決が出来ていないままになってしまいます。
 
 さて、皆さんは、死んだ後の世界は、どんな世界だと思いますか。もし、死んで終わりであるならば、到底、死を受け入れることはできませんよね。死ぬのは怖い、心細いと思うのは当然です。ですが、浄土真宗の教えは、死んで終わりではありません。人間の命終えた後には、阿弥陀如来様の世界に参らせていただく教えです。お経の中には、阿弥陀様の世界である極楽浄土の事がたくさん説かれてありますが、難しい事よりもなにより、先立たれた方が待っていてくださる世界がある。必ずまたお会いすることのできる世界に参らせていただくことができる。その心強さこそが、浄土真宗の教えの一番大切なところです。
 
 自分がどこに往くのか分からないまま死んでいくのでは、あまりに寂しく、不安なものです。愛する人がどこに往かれたのかも分からないままの別れは、だただ悲しみに終わってしまいます。私がどこに往くのか、亡くなられた方をどこに見送ったかということをしっかり心に頂いていなければなりません。だからこそ、生きている今、私たちが命のかえる場所を教えに聞かせていただかなければならいのです。
 
 私もいつか人間の命終えるその時には、「先立って往かれた方が、待っていてくださる所に、私も参らせていただきます。そして今度はお浄土で、私もあなたを待っているからね、安心していてくださいね」と、お別れできればいいなと思っております。逆に誰かを見送る立場になった時には、「この方はこれからお浄土へ参られていく。先に往って私たちを待っていてくださるのだから、精一杯生き抜いて、再びまた会える世界がある。まっていてくださいね。」とお別れしたいものです。浄土真宗のみ教えをいただく私たちは、死んだらもう永遠に会えなくなるのではなく、また再びお浄土で会うことのできるお別れなのです。
 
 さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならず、まちまいらせ候ふべし。  
 (親鸞聖人御消息)
 

正しいつもりの善人

 我が家では、息子をお風呂に入れるのは、基本的に私の役目です。先日、いつものように息子をお風呂に入れ、顔や頭を洗ってあげるのですが、息子の口の周りには、たくさんのチョコレートがついています。いったいどんな食べ方をすればこんなにつくのだろうと、不思議に思うくらい汚れています。「もうちょっと綺麗に食べられないの」と息子の口の周りを洗っている時、ふと、お風呂場の鏡にうつった自分の顔を見ると、私の口にもチョコレートがついていました。息子にばれると父親の面目丸つぶれです。そそくさと拭き取り、何事もなかったようにしていました。皆さんもこんな経験はありませんか。
 
 自分以外の人の汚れはよく見えても、自分自身の汚れはなかなか気が付かないものです。そして「あなたの顔が汚れていますよ」と、おしえられた時には感謝できますが、「あなたの心が汚れていますよ」と言われると、はたして感謝できるでしょうか。
 
 鎌倉時代、無住禅師という方が書かれたといわれる『沙石集』の中に、こんなお話があります。ある時、四人の僧が一本のロウソクをまん中に置いて、無言の行を始めました。無言の行とは、その最中は、口から声を出してはならない、つまり話してはいけないという行です。やがて、一日が過ぎて夜になりました。夜風が吹き、戸がカタカタ揺れます。しかし、気を散らさずに黙っています。そのうち すきま風でロウソクの炎が揺らぎます。心も少し揺らぎます。ですが、口を開いてはなりません。ところが、強めの風が吹いたとたん、ロウソクが消えてしまったのです。「あっ、火が消えた!」思わず、一人の僧がしゃべってしまいました。すると、もう一人の僧が、「こら、今は しゃべっては いけないのだぞ」と注意しました。そして、別の僧が、「しゃべるなと言いながら、そう言うお前がしゃべっているではないか!」と、やはり、しゃべってしまいました。これで、三人とも無言の行は失格です。そこで、ずっと黙っていた最後の一人が、「結局、しゃべらなかったのは、私だけだ」とつぶやきました。つまり、全員失格です。
 
 こんなふうに、私たち人間は、他人のことはよくわかるが、自己自身のことは、なかなかわからないものです。でも、自分のことを一番よく知っているのは、自分だと思っています。自分のことは、「確か」で「正しく」て、その思いを離れられない。だから、その自分にとらわれて、周りの人を責めてしまう。善い事をしたら、その善い事にとらわれて、善い事をしていない人を見下したりします。自分の本当の姿は「正しいつもりの善人」なのです。
 
 阿弥陀如来様は、そんな思いや我執(とらわれ)に縛られている私に対して、「自分が正しいという思いやとらわれこそ、一番危ないのですよ。ほんとうの自分の汚れに気付いてくださいよ」とはたらきかけて下さっているのです。自分では気付けない自分の汚れは、誰かに指摘されても、なかなか素直にうなずくことも出来ないかもしれません。仏法という鏡に自分をうつして見ることで、初めて知らされてくるのです。そして、そんな愚かな私だからこそ、心配でならないというお救いが如来さまのお慈悲なのです。

納骨の決心がつきました

 先日、あるご門徒さまのお納骨の法要を勤めました。お葬式から八年。納骨の決心がなかなかつかず、ずっと自宅のお仏壇に置いてありました。きっと、お骨を収めると、もう身内の縁が切れてしまうと思われたのでしょう。納骨を決心されるまで年数が経ちましたが、私はこの歳月というのがとても大切だと思っています。お骨というのも、簡単に言えば「ほね」です。火葬されて残った「ほね」です。極端に言えば物質です。しかし、それが身内のものであるから、「ほね」であっても大切に扱うのです。
 
 昔、「人間死んだらゴミになる」とおっしゃった方がいましたが、少なくとも身内の死を縁として、生死無常のことわりを知り、両手を合わす身にならせていただいたものをゴミのように扱えるはずがありません。そこで、一定の場所に納骨をして、遺徳を偲び、感謝をさせていたくのです。そしてお骨ですから、長い年月が経てば、土に還っていくのです。それでいいのです。たとえ土に還ったとしても、亡くなったものは「はたらき」として、わたしの中に生きているのです。
 
 ですが、愛していた人のお骨であればなおさら、こう考えることが出来るようになるには時間がかかります。ご門徒さんが納骨を決心なさったのは、亡くなったものはお骨ではなく、仏となってそばにいてくださるのだと、何度も重ねてきたご法事などで、仏法に触れ、歳月をかけて感じとられたからに違いありません。私は、歳月が心を育ててくれるということを忘れて、納骨することばかりを薦めて、かえってプレッシャーをかけてしまっていたのかもしれません。
 
 そもそも人間というのは、見たら見た物に、聞いたら聞いたものに、持ったら持ったものに心を縛られて生きています。お骨にしても、長年苦楽を共にしてきた身内のお骨を前にすれば、さまざまな想い出が蘇ってきます。それを火葬してお骨になったからといって、すぐに手放して納骨することなんてとても出来るはずがないと思うことも当然かもしれません。悲しみのどん底におられる方に、お骨が亡き人であるわけではないとお伝えしても、通じるはずがありません。歳月をかけて仏法を聞き、やがて心に響いてくるものです。その時に初めて、お骨にとらわれることなく、仏となられた方からのはたらきとして感じることが出来るのです。
 
 昔から「時が解決してくれる」といいますが、心の面では特にこの時間というのが大切だと思っています。大学の頃に読んだ仏教書を今読み返してみると、あの頃には気付けなかった素晴らしさや感動が分かってくるのも確かです。すると年をとるということも有難い事だなといただけてきます。もちろん、いたずらに歳月を重ねることがいいということではありません。迷いや苦しみの時間を経て、仏法を聞く縁の中で見えてくるものがあることを、しっかりと聞かせていただきたいと思います。
 

悲しむ力

 お葬式の時に、ご遺族の会話で「悲しいことは早く忘れた方がいい」という言葉を耳にしました。愛する人との別れの悲しみを正面から見つめることは、とてもつらいことです。早く忘れて、出来ればなかったことにして、いち早く平静を取り戻したいと願うのも、当たり前のことかもしれません。しかし、そこに悲しみがある以上、やはり私たちは目をそらしてはいけないと思います。悲しみは人間にとってごく自然な感情です。それに蓋をしてしまうと、本当に大切なものまで見えなくなってしまいます。悲しむということはとても大事なことなのです。
 
  皆さんが、お通夜やお葬式で故人を見送り、四十九日や一周忌の法要を丁寧にお勤めされるのは、その間に個人を偲びながらも、しっかりと悲しむ時間をもつためでもあると思います。その悲しみを通して、その人のことを生涯忘れず、自分の心に刻んでいくのです。そして自分の心の中に亡くなった後もずっと生き続けていくのです。つまり悲しみがあるということは、亡くなった人の事を思い続けていくことが出来るという力を、悲しみを通していただいているのではないでしょうか。人間にはそんな悲しむ力があると思います。もしかすると動物には人間ほど悲しむ力が与えられていないのかもしれません。人間はそうゆうものが与えられているということを、大切にしていくべきではないかと思います。
 
 また、人間というのは、生きている間は、お互いに意地を張って、悪いところを見つけては文句を言いたくなるのかもしれませんが、亡くなった後は、今度は良い面ばかり見えてくるようになるものです。ですから、亡くなった後にもう一度思い返してみることも大切なことなのです。自分の考えより、相手の想いやご恩を素直に受け止めることもできるでしょう。そこに、本当の意味でお互いにもっともっと近づきあえるものがあるのではないでしょうか。
 
 その中で、先立っていかれた人の思いを、残されたものが受け継いでいくのも一つの縁であります。残していく人たちに、ああなって欲しい、こうなって欲しいという、後ろ髪を引かれる思いで私達を心配しながら亡くなっていかれた方もおられるでしょう。そこで、その人の気持ちをしっかり受け止めて、「あなたが悲しまないようにしっかり生きていくからね。お浄土で遭った時には、あなたに褒めてもらえるような私になるからね。」というのも立派な生き方だと思います。
 
 浄土真宗の教えは、人間のいのちが終わっても終わりでない世界があるという教えです。先にお浄土へ往かれた方は、永遠の眠りについているわけではありません。阿弥陀如来様と同じはたらきをする仏様としていのちをいただくのです。この私達の世界にもどってきて、いつでも私のそばにいてくださるはたらきです。私と共に苦しみ悲しみ、共に喜び、お浄土という同じいのちのかえる場所へ導いてくださっているのです。
 
かならずかならず一つところへ参りあうべく候 『親鸞聖人御消息』

「常識、非常識」~喪中ハガキ~

 新年を迎え、元旦に届く年賀状を見るのが、一年の最初の楽しみです。しかし、恥ずかしながら私は、毎年元旦に届くかどうかギリギリでいつも年賀状を作っています。というのも、喪中のハガキなどが届いているので、出す人出さない人を分けていかなければなりません。喪中ハガキが届いているのに、年賀状を出せば、受け取る側がどんな風に思うかと気を付けます。皆さんもそんな経験がありますよね。でも、もし私自身がいわゆる喪中となった時には、喪中ハガキではなく、年賀状を出そうと思っています。こうした行為、皆さんは「非常識だ」と思いますか?
 
 一般常識の「喪中」とは、身内を亡くした家族は、新年のお祝いなどの慶事から辞退をするという考えのようです。ですが、以前、喪中だったある方に、「お正月はどうお過ごしになられましたか」と尋ねると、「いやぁ、親戚達も大集合で孫たちも来てくれて、大賑わいで楽しいお正月でした」という返事が返ってきました。悲しみの中にも、明るいお正月を過ごされたことは、とても良かったと思いました。ただ、一般的に、身内が亡くなれば喪中ハガキを出し、喪に服するのが常識と言っても、どのように過ごせば良いかわからないという方も多いのではないでしょうか。そもそも「喪中」の本当の意味は何なのでしょうか。
 
 この「喪中」というのは亡き人を「穢(けがれ)たもの」と見ることからくる考え方です。「清め塩」と同じ発想です。死の穢れを拡散させないために、喪に服して謹慎するというものです。こうゆうものの見方は、極端なこと言うと、亡き人に対する冒涜のように思います。きっとそんなつもりで喪中をしている方はおられないと思いますが、一般的な「常識」をよく考えなおしてみる必要はあるようです。
 
 浄土真宗を開いた親鸞聖人は、お弟子さんが亡くなられたと聞いた時に、「うれしく候」とご返事を書かれました。親しい人が亡くなった時に「うれしい」という感覚。「親鸞聖人は非常識な人だなぁ」と思いますか?きっと親鸞聖人であっても、親しい人を亡くして、悲しくないはずはありません。無量の死の縁に触れれば、人はいつか必ずいのちを終えていかなければなりません。ですが、人がそのいのちを終えるということは、それで終わりではないのです。「穢れに終わるいのちではなく、仏として生まれていく尊いいのちである」と親鸞聖人はいただかれたのです。ですから「うれしい」とおっしゃったのです。
 
 こうした教えは、私たちの常識を超えたものです。非常識でなく、常識を超えた仏教の世界が広がっているように思います。喪中などの一般の常識を軽々と超えた、心強い真実の教えに出合わせていただくのが仏法なのです。

苦しみの原因

 生きている限り、煩悩が離れることなく、苦しみ続けているのが人間です。なぜかというと、その苦しみの根源は自分にありながら、苦しみの原因を、正しく知らないからです。幸せを求めても、それが本当に幸せになるものか見定めなければ苦しみになるのです。例えば、こんな笑話があります。
 
 昔、飲み水を売る水屋という職業があったそうです。休みはなく、賃金も安いうえ、重い水の入った桶を運ぶので、年を取ると大変な仕事です。ある水屋が、たまたま富くじを買うと、見事に千両が当たりました。風呂敷きに包んで持ち帰り、「これで水屋から足を洗える」と大喜び。ところが、小判を隠す時になって、はたと困ってしまいました。つづらの中の古着に隠したらいいか、仏壇に隠したらいいか、どこも心配だと、結局、縁の下に隠すことにしました。しかしそれからは、周りの者が皆、盗人に見え、風呂に行くのも気が気でないのです。おちおち寝ることもできず、床に就けば、夢の中で強盗に殺される。仕事の前には、縁の下を棒でつついてコツンと当たるのを確かめて、出掛けるのが日課。夜、寝る前にも確認し、夜中に目が覚めると、縁の下に行って、コツンとやらねば安心できない。フラフラになって、それでも、毎日コツンと確かめているうちに、それを見ていた隣の男が、そっくり盗み出してしまいました。水屋は、荒らされたのを知り、慌てて確かめると、さあ大変。金はすっかりなくなっていました。そこで水屋が一言、「ヤレヤレ、これで苦労がなくなった」と胸をなでおろした。というお話です。
 
 無ければ無いで苦しみ、有れば有るで、それがまた不安の種になるのです。健康だ、金もある、財もある、恋人もいる、明るい家庭もあると言っても、結局はシャボン玉のふくらみでしかありません。変わりゆくものを心のよりどころとしてしまうことが苦しみの原因であると仏教には説かれてあります。
 
 親鸞聖人のお言葉に「四苦八苦の中に愛別離苦これ最も切なり。」とあるように、愛しい人との別れは、苦しみの中でも最もつらいものです。しかし、その別れの苦しみでさえも、原因は自分の中の執着でしょう。変わってほしくない。と思う心と、変わらずに有り続けるものなどないという現実に、苦しみつづけるのです。
 
 そんな、とても一人では解決することのできない苦しみの中に生きている私たちを救いたいと願いを立てられたのが、阿弥陀如来様のご本願です。私たちが、自らその苦しみを無くし、悟りを開いて仏になることが出来る人であれば、如来様は、あなたを救いたいと願いを立てる必要なんてなかったのです。苦悩を捨てきれない私達であると見抜いたからこそ、救わずにはいられないと、願いを立ててくださったのです。如来様の教えは、苦しくても苦しいと思ってはいけないとか、悲しくても泣かずに頑張りなさいという教えではありません。悲しい時は思い切り泣きなさい、でも私がいつでもそばにいます。その苦しみや悲しみをすべて私が引き受けて、本当の幸せに連れて行きます。という慈悲の心なのです。
 

信心を得るとは?

 「どうすれば、信心を得られるのでしょうか」という質問をされたことがあります。浄土真宗の教えを真面目に学ばれているからこそ出てくる問いであります。
 
 しかし、その問いの中には、信心が得られた状態とは、きっとこんなふうではないかと、勝手に想定しているところがあると思います。それに対して自分はまだまだそこには至らないから、「どうすれば信心を得られるのか」という問いが出てくるのです。そして、自分の心もいつか、信心のある状態に成長していくとも考えておられるからではないでしょうか。「もっと勉強すれば得られるかもしれない」とか、「いい先生のお話を聞けば、なんとかなる」と期待をして、今は駄目でも、いつか信心を得た状態にならねばと考えてしまうのでしょう。
 
 ですがそれは、「たった今、ここにしか」命がないという事態を見落としていると言えます。明日も命が続くと仮定した上での話は、仏法にはありません。常に死を目前において、生と死を一つに見ていくのが仏法です。阿弥陀様にとっては、私に信心を得た実感があろうと無かろうと問題ではありません。そんなことより、いつ死が訪れるかもしれない私を心配されているのです。
 
 ですから、阿弥陀様は、私が何かになるのを待っておられる訳ではありません。阿弥陀様のお救いは、「たった今、ここで」のことです。過去に「仏法を聞いて、有難い気持ちになったから大丈夫だ」と自分の心を頼りにしていても、役には立ちません。逆に、「将来信心を得ることが出来るかもしれないが、今はまだ駄目だ」と思っているのであれば、「たった今、ここで」の阿弥陀様のお救いに気が付くことは出来ないかもしれません。
 
 ある仏教学研究の先生は「私が今までやってきたことは、みな嘘であった。ただ、私には何もない事が知らされた。これが信心である」と表現されました。私には救われていくのに役立つものは何もない、あるのは救いたいという阿弥陀様のはたらきだけという意味ではないでしょうか。何もないから南無阿弥陀仏があり、南無阿弥陀仏があるから何もいらないということです。「たった今、ここで」、何もない私がすでに、救いの中にある喜びであり安心です。自分が何かを信じ、自分で何かを積み重ねて結果を得たいという考えが打ち消されてこそ、阿弥陀様のお慈悲の世界です。

お母さんからの請求書

 先日ある布教使さんのお話をお聞きしましたので、ご紹介します。
 
 あるところに進君という、普段からお母さんのお手伝いをよくする、とても感心な男の子がいました。ある時、欲しいものができたのですが、自分の持っているお金では買うことができませんでした。なんとか足りない分のお金を工面しようと、ある作戦を思いつきました。それは、今までしてきたお手伝いに値段をつけて、お母さんに請求書を出すというものでした。「留守番をしたことがあったから百円、お使いに行ったこともあったから百円、お掃除のお手伝いが百円・・・」と、全部で五百円の請求書を作って、テーブルの上に置いて寝ました。
 
 次の日の朝、急いでテーブルを見に行くと、そこには、請求書の代わりに五百円玉が置いてあったそうです。進君は、作戦は大成功だったと、喜んで学校へ行きました。学校が終わって家に帰ると、お金が置いてあったテーブルに、一枚の紙があるのを見つけました。何だろうと見てみると、表に「お母さんからの請求書」と書いてあったそうです。びっくりした進君は、きっとお母さんは怒っているのだろうと、恐る恐るその請求書を読んでみました。そこにはこう書いてありました。
 
「お母さんからの請求書。
一、あなたが熱をだした時の夜通しの看病代。
一、あなたが毎日汚してくる洋服の洗濯代。
一、あなたが毎日食べてくれるご飯の支度代。
一、あなたが生まれてくれてからの育て代。
 
以上、全部無料。」と書いてあったそうです。子どもの思いも全部分かったうえで、親の気持ちを伝える請求書でした。
 
 進君は、叱られると思っていた自分の思いとは反対に、いつも自分の事を考えていてくれる母親の想いに気が付き、自分のしたことが恥ずかしくてたまらなくなり、泣き出してしまいました。そして、結局その五百円は使わずに、今でも宝物として持っているそうです。皆さんはこのお話をどんな風に感じましたか。
 
 子は、子を想う親の願いによって、自らの恥ずかしさや情けなさを知らされてくるものです。それは、いつも自分の思い通りになってほしいと願い、自分が何かした事に対しては見返りを願って生きている私が、もうすでに大きな願いの中にいることに気付かせていただくからです。
 
 仏様のお心も同じです。自分に都合のよいお願いをかなえてもらうのが仏様ではありません。何の見返りもなく無条件で、「いつでも、どんなときでも、あなたのそばにいますよ」という、すでに私を包み込んでいてくださる仏様からの願いに、喜びをいただくのです。私たちは自分が願うことを止めたときに初めて、願われていることに気が付けるのかもしれません。
 

「どうして年回忌をお勤めするのでしょうか」

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 以前、「どうして年回忌を勤めるのですか」と、ご質問を受けた事がありました。今まで「年回忌を早めてもいいのですか」とか、「二つの法事を一緒に勤めてもいいのですか」などの質問はよくありましたが、そんな風に尋ねられたことはありませんでした。一般的に年忌を勤めるのは、ご先祖様や亡き人の為に勤めるのだと言われますが、そこにはなかなか問題もあるようです。
 
 もしも年回忌を勤めなければ、親戚から苦情がきて「忙しいからって年忌も勤めないなんて、死んだあの人も可哀そう」なんて皮肉まで言われるかもしれません。他にも、施主様側が「普段は顔の一つも出さないくせに、法事となると大きな顔をしてやってくる。わずかな御仏前を包み、たらふく飲み食いをして、よい年忌を勤めたと言って、千鳥足で返礼の品とお膳の残りを折詰にしてもらって帰っていく。ご先祖どころか親戚ばかりに気を使った年忌だ」と、愚痴をこぼしていた方もおられました(笑)。誰かの為だというところに立っていると、多かれ少なかれこのような問題も起こりかねないかもしれませんね。
 
 また、自分の為に勤めるのかというと、そこにはそこで、「ご法事を勤めておけば、ご先祖も悪いようにはしないだろう、何かの時には護ってくださるにちがいない」という計算の心がはたらいているようです。不測の事態が起きると「ちゃんと年回忌も勤めているのにどうして。ご先祖様も役に立たない」と、自分の損得の為のご法事になってしまっては意味がありません。
 
 では、年回忌はいったい何のためにお勤めするのかといいますと、そもそもご法事とは、私達の側からでなく、仏となられた方から私達がいただくものです。たくさんの命のつながりの中で私が人間として生まれた喜び。どんな人であっても必ず終えていく命であるからこそ、今を大切にしていかなければならないという気づき。悲しい別れがあったとしても、仏となってそばに居て下さるという心強さ。私が命終えるその時には、同じ帰る場所がある安心。そんな、亡き人からの命の導きをいただくのが本当の年回忌の意味です。
 
 普段は命について考える事も少ない私達が、せめて年に一度だけでも、亡き人の縁を通して、自分の命について、しっかりと見つめて
いく時間にしていただきたいものです。
 
 

 

老・病・死は異常なこと?

 以前、お葬式でこんなことがありました。前の日のお通夜であった子どもたちが、お葬式では姿が見えませんでした。ご遺族にお尋ねすると、「子どもたちにはあまり死に顔を見せたくないので親戚に預かってもらっている」という返事が返ってきました。子どもたちを想っての事であったと思いますが、それでは家族の中で、本当に大切なことが伝わっていかないのではないでしょうか。
  
 以前、新聞に「首都圏では9割の人々が病気で亡くなるため、日常生活から死が切り離され、老・病・死は異常なものであるかのような考えが生まれている。このように、今の世の中が子どもたちに、老・病・死を忌み嫌わせるような世界を創り出している」という内容のことが書かれていました。亡くなられた方のお骨を拾い、色々な思い出を話すことは、大切な感情を育んでくれます。しかし、現代は死を異常な事として、目をそむけているようです。
 
 仏教では人生を生と死としてみます。生まれたからには死を避けることはできません。まさに生と死は表裏一体で分けて考える事は出来ません。死を異常なものとして遠ざける事は、自分自身のいのちを粗末にする生き方になってしまうのではないでしょうか。
現代の大人がこのままでは、子どもたちにもそんな生き方を強いることになってしまいます。
 
 本願寺8代宗主蓮如上人は、
 わかきときに仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。
 
と仰せになりました。諸行無常のまっただ中にいる今の今、私のいのちの意味を考え、そのいのちの生き方を知ることの大切さを教えてくださっています。それはまさに、身近な人の死を通していのちのありようを聞き、それを伝えていくことの大切さです。
 
 老・病・死は決して異常な事ではなく、ごく自然なことです。仏教では、無常の人生の中で生じる苦悩すら無駄にせず、その意味をみいだし、それを乗り越えていく道を説きます。しかし、それは現実の苦悩が消えてなくなるという事ではありません。仏の教えを聞かせていただくと言う事は、尽きる事のない苦悩を真正面から受け止め、その苦悩に差しのべられてある救いに安心をいただく事です。
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