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宗教は本当の幸せへの導き

 先日、インターネットでこんな記事を読みました。何年か前に、中東でちょっとした事件があったそうです。車で通行中の日本の商社マンが、道路で警備をしていた兵士に職務質問をうけました。名前を聞かれ、免許証の提示を求められた後で、「あなたの宗教は何ですか?」と尋ねられました。商社マンは「えーっと・・・」と口ごもって答えられないでいると、即座に逮捕されたのです。中東は信仰する宗教によって、立場が大きく違いますから、自分の宗教を答えられないような人間は「こんな怪しい奴はいない!」ということになったのでしょうか。政府の機関の人が、あちこち走り回って日本の宗教事情を説明し、ようやく釈放されたそうです。日本の道路で、これと同じような検問をしたら、さぞかしゾロゾロと逮捕されることでしょうね。

 「うちの家の何宗だったかな」くらいならまだしも、「私は無宗教だ」とか「神も仏も、私には関係ない」と大声で公言している人もいます。現代の私たちは、物の豊かさと引き換えに、人間の視点でしか、ものを見られなくなっていることが原因かもしれません。自らの幸せを求めては、すべてのものを損得勘定ではかり、実際に見えないものや、直接自分に利益のあると思えないものには、わざわざ目を向けようとしません。「宗教がなくても生きていける」、「宗教は法事や葬式の時のもの」、といった、宗教の中にある、本当の幸せへの導きを見失いつつあります。自らの死の問題や、人間の根本的は苦悩に答えを与えようとする、仏様の存在を見失っていては、いかに幸せになりたいと考えてみても、あまり意味のないことのように思えます。

 本当の幸せとは、辛さや苦しみ、悲しさの正反対ではありません。かといって楽しさや嬉しさと同じものとも言えないと思います。言うなれば、失意のどん底にあって、なお、しみじみと味わえるほのかな生きる喜びといったようなものではないでしょうか。人間は本来、普段は気が付きにくい不安や虚しさを抱えています。自らの死や病、別れの悲しみなどに直面した時には、その不安があらわになり、無力感や恐怖が人間を襲います。その時、その苦悩を包み込んで、人間に生きる力を与えるのは人間以上のもののはたらきであるはずです。人間ではどうしようもできないところに差し伸べられている救いによって道が開けてくるのです。仏様の願いは「どうしてもしあわせにしたい」「なんとしても気づいてほしい」という、とても強い願いです。その願いのはたらきによって、胸が裂けるような悲しみや痛みに苦しむ人が、「なぜ自分だけ」と虚しく悲嘆にくれるのではなく、その苦しみを転じて生きる喜びや、幸せを見つけることが出来るのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏のお念仏はどういう意味?

 皆様は今まで何回お念仏をされてこられましたか。それこそ数えきれないという方もおられるかもしれません。先日、お寺に南無阿弥陀仏のお念仏について尋ねてこられた方がおられました。「南無阿弥陀仏はどういう意味ですか?」
 
「念仏(南無阿弥陀仏)は親の呼び声、子の返事」といいます。阿弥陀様という仏様は、いつでもどこでも誰にでも声をかけてくださっています。その声(南無阿弥陀仏)、言葉の内容は「たとえどんなことがあっても、あなたを見捨てないよ、あなたと私はいつもいっしょだよ、だから何の心配もせずに堂々と自分の人生を歩んでいきなさい」というものです。
 
 さて、この南無阿弥陀仏のお念仏を親鸞聖人は「本願招喚の勅命」とおっしゃいました。勅命とは断ることのできない命令をいいますが、阿弥陀如来様が私に念仏させていると示されたところです。阿弥陀様が私に念仏させているとは、どういう事でしょうか。
 
 私には二人の子どもがおりますが、現在長女は中学一年生です。幼い頃は私の事が大好きで、いつも私の後をついて歩いていました。いわゆるお父さん子でした。寝るのも、お風呂も、遊ぶのも、いつも私と一緒です。あまりに私の方ばかりにくるので、妻はなんだか不満そうな毎日でした。そんなある日、我が家で事件が起きました。三歳の娘がトイレに入って、内側から誤って鍵をかけてしまいました。誤ってかけたものですから、開け方が分からず、泣きながら助けを呼んでいました。「怖いよー。鍵が開かないよー、助けてー、お母さーん!」と。
 
 妻はその一言でそれまでの鬱憤が晴れたと言っておりました。あんなにお父さん子の娘が、どうしてお母さんを呼んだのでしょうか。どんなに私の好きであっても、本当に困った時には、仕事で家にいるかどうかも分からない私の名前は呼びません。呼べば必ず来てくれる人、いつでも必ずそばにいてくれる人の名前を呼んだのです。確かに呼んでいるのは娘の声ですが、呼ばせているのは母の愛です。
 
 南無阿弥陀仏のお念仏も同じです。お念仏申しているのは私の口であっても、念仏せしめてくださっているのは阿弥陀如来様のお慈悲です。親鸞聖人が本願召喚の勅命とおっしゃたのは、その阿弥陀様の親心のようなお慈悲をお示しくださったのです。
 
 阿弥陀様はいつも、どこでも私と共におられます。そしていつも「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀仏」のお念仏、私への呼び声となって、私の口から出てくださいます。その声を私の耳で聞いていくとき、私と阿弥陀様はひとつとなり、まわりの人々とともに人生が
広がるのです。苦難にみちた人生をわかってくださる真実の親様、阿弥陀様といつも一緒ですから、悲しみは半分に喜びは倍になるのです。南無阿弥陀仏の声となって寄り添ってくださる仏様です。

本当のこころのよりどころ

 突然ですが、皆様は、何を心のよりどころとして生きていますが。支えや頼りにしているもののとです。そして、それは本当に頼りにできるものでしょうか。
 
 仏教を開かれたお釈迦様の教えの中に、次のようなご説法があります。「モズという鳥は、秋の間、せっせと餌を集めるが、それを木の枝に突き刺しておく癖がある。寒い冬の日のために蓄えているつもりなのです。けれども愚かなモズは、餌を突き刺した場所を確かめるのに、空を見上げて、雲を目印にしている。あの形の雲の下に入れば、この餌にありつけると思っているのです。ですが、雲は動くものだから、せっかく集めた餌をみつけることが出来ずに無駄になってしまう。結局、哀れなモズはひもじい冬を過ごす結果になってしまった。」という内容のものです。
 
 お釈迦様は、モズの例えで何を教えようとしておられたか分かりますでしょうか。それは、移り変わっていくもを心のよりどころとし、頼りにして生きていては、結局は虚しい人生に終わってしまうということです。
 
 よくよく考えてみますと、私達が頼りに思い、よりどころ、支えにしているものは、移り変わっていくものがほとんどではないでしょうか。例えば財産もそうです。努力することで増えもしますが、一瞬で失くしてしまうこともあります。身体にしても、まったく予想もしない時に、けがをしたり、病気になったりすることもあります。夫婦や親子、家族や友人も永遠にあり続けるものでは決してありません。いつかは必ず別れていかなければならないのが道理です。移り変わっていくものと言わざるを得ません。このような、移り変わっていくものに目を奪われてばかりいては、結局失くした苦しみや悲しみの中に終わってしまうことになります。
 
 親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫火家無常の世界はよろずのことみなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」とお示しくださいました。無常の世界では、たくさんのものを手に入れたい、永遠に持ち続けたいと願ってみても、いつかは必ず移り変わっていくものです。ですから決して変わることのない、阿弥陀如来様のお救いをこころのよりどころとしなさいと教えてくださっているのです。
 
 決して変わらないものを真実と言い、どうしても移り変わっていくものを不真実と言います。まして私たちは、生まれたからには必ず死んでいかなければなりませんから、私達の周りにあるものは、結局置いていかなければならない不真実なものばかりです。だからこそ、たとえいつかは必ず命を終えていくとしても、死んで終わりでない命を生きていること、別れても必ずまたお会いすることのできる世界があることを、こころのよりどころとさせていただくのです。そのこころのよりどころによってこそ、虚しく終わることない人生を生きることが出来るのです。 合掌

人間の愛と仏様の慈悲

 皆さんは最近「愛してるよ」と言ったことや、言われたことがありますか。私も、とんと言うことも聞く事もなくなりましたが、これは日本人の性格によるものでもあるようです。日本人は世界の中でも、とてもシャイな人種です。アメリカでは八十、九十歳になるおじいちゃんおばあちゃんも「アイラブユー」と日常茶飯事のように言っているそうです。夫婦や家族、友達が仲良くいられるひけつは、相手を好きであることを声に出して伝える事が大切です。言われた方はもちろん嬉しいですが、言っている方も自己暗示にかかって、そんなに愛していなくても、言っているうちに愛おしくなってくるそうです。逆にそんなに不満はないけれども、相手のいないところで、悪口ばかり言っていると、だんだん憎らしくなってしまうそうです。ちょっと恥ずかしいですが、皆様も一度チャレンジしてみてはいかかがでしょうか(笑)。
 
 一言で愛と言っても、人間の愛にもいろいろあります。夫婦愛、親子愛、兄弟愛、友人愛もあるでしょう。人の世には愛がなければなりませんが、その愛が深ければ深いほど、結局は悲劇的になってしまうところが、人間の悲しいところであると、仏法では説かれています。お釈迦さまは愛するゆえの苦悩を愛別離苦(あいべつりく)とも怨憎会苦(おんぞうえく)とも名づけられました。
 
 愛別離苦とは愛するものと別れていかなければならない苦しみのことです。どんなに離れたくないと思っていても、ともにあるべき縁が無くなった時は、必ず別れていかなければなりません。恋人に振られることもあり、死に別れていかなければならないこともあります。人間の愛は決して永遠は続かない無常さ故に、愛別離苦という苦しみを伴うのです。
 
 はたまた、怨憎会苦というのは、どんなに愛していても、その愛が裏切られた時、愛が深ければ深いほど大きな憎しみに変わっていってしまう苦しみを指しています。本来、愛とは与えるものであって、貪る愛ではあってはなりません。憎しみや恨み、悲しみに変わってしまうような愛では、必ず苦しみへと向かってしまいます。ですが、一切見返りを求めない愛、決して憎しみに変わることの無い愛というのは、とても難しいものです。
 
 真実の愛とは相手を本当に大切なものと思う心から出てくる慈しみの心です。ですからそれは決して憎しみには変わるはずがないのですが、人間の愛とはどうしてもそこに我が入る愛でありますから、真実の愛とは言えなくなってしますのです。男女の愛一つ取ってみても、恋愛のこじれで起きた殺人事件というのもよく耳にします。誰よりも愛していたはずなのに、その人を手にかけてしまうのです。愛といいながら、結局人間の愛の中心には私がいるのです。
 
 他にも親子愛というのもあります。たしかに親が子を育てているときの献身的な愛情は、仏様の慈悲という言葉に一番近いかもしれません。しかし、その愛ですら、他人の子供までは及びませんし、それどころか、わが子可愛さのあまり、他人の子供をねたんだりすることさえあります。せめて親子や兄弟、夫婦だけでもいたわりあい、守りあって、愛と安らぎの中で過ごしたいものですが、現実にはそれすらも、憎しみ悲しみをもたらす原因になってしまうことが多いのです。まさに仏法に説かれている通り、誰かを愛してあげたい、愛したいと思っても、それがなかなかできない愚かなわが身を知らされるばかりなのです。
 
 人間の愛に対し如来様の慈悲とは、愚かな人間に差し伸べられた愛です。無条件に他を思い、他の苦しみ悲しみを我が心の痛みとして、その人の幸せを自らの願いとしてゆく心は、如来様の慈悲でなければできないのです。人間の愛には限界がありますが、変わることのない如来様の慈悲こそ、真実の愛といえるのです。如来様の真実の慈悲を知る時、人間の愛の限界や自分の無力さを感じながらも、希望と心強さをいただくことができるのです。そして、そんな人間も、命が終わるその時には、如来様と同じ、真実の慈悲のハタラキをする仏様とならせていただいて、その慈悲をもって他のものを愛し抜くことができるのです。
 
 昔の浄土真宗のご門徒の方は、お通夜にお赤飯をたきました。残されていく遺族、家族は心配であるけれども、今度は仏となって、本当の意味で家族を愛し、救うことが出来るのだから、こんな嬉しいことはないじゃないかと、亡き方の死を悲しみながらも、仏に生まれられたことを喜ばれたのです。仏様の慈悲とは、愛すらも自らの苦しみの種となってしまう愚かな私達だからこそ、見捨てることが出来ないと包みこんでくださり、真実の愛に目覚させ、導いてくださるお救いなのです。合 掌

最近親しい人を亡くされた方へ

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 私が僧侶になってから、二十年余り、数えきれないほどのお通夜お葬式を勤めてまいりました。ご遺族の方から「故人は、今どうしているのでしょう」と涙ながらのご質問を受けることがよくあります。残された私達は、親しい人との別れという大きな悲しみの中で、死というものをどのように受け止めていけばいのでしょうか。
 
 まず、亡き方は私たちにたくさんのものを残してくださいました。ご生前のご苦労はもとより、私たちはどんなに愛しい人であっても、必ず別れていかなければならないこと、死とは自然なことであり、死の縁に触れれば、老いも若きも人間の命を終えていかなければならない、無常の理の中に生きていることを、自らの死をもって、人生最後の教えとして、お示しくださっているのです。そして、普段は当たり前と思っていることが、どれほど有難く、すばらしいものであったか、死別という悲しみや寂しさを通してでしか見えてこない、大切なものを気付かせてくださったのです。
 
 いまや亡き方は、阿弥陀如来様のみ手に抱かれて、お浄土で仏となっておられることでしょう。仏様の教えの中には倶会一処(くえいっしょ)という教えがあります。またひとところで善き人と会うという意味です。私たちも、この無常の理の中で生きている限り、いつか必ず人間の命を終える時が来ます。その時には、今度は仏同士として、お浄土でお会いすることができるのという教えです。それまで、先にお浄土という命の故郷で仏となって、「安心して生きてください。いつでも傍にいるのですよ。」と、私たちをお浄土へ生まれる道へと導いていてくださっているのです。
 
仏になられた方が、私たちが悲しむ姿を見て、どうしてお喜びになるでしょうか。それよりも、いつでも仏となって傍にいてくださるのだと、心の糧として、この人生を感謝のお念仏の中で精一杯生き抜いていく、その姿を見られた時に初めて、亡き方はお喜びになるのだと思います。親しい人を亡くすことは、とても大きな悲しみです。しかし、その悲しみを、ただただ悲しみのまま終わらせないでください。その深い悲しみの中から、本当の心強さに気づいていただきたいのです。
 
「あなたに会えてよかった。あなたのおかげで本当に良い人生でありました。今度はお浄土でお会いしましょう。それまで、あなたの分まで、精一杯生き抜いていきますよ。」と、悲しみを心強さに変えていくことが、本当の意味で亡き方の死を無駄にしないということです。そして、残された者が、この悲しみや苦しみを御縁として、仏様の教えを聞かさせて戴く身になることが何よりも大切なことなのです。

 

災いが無くなるご利益

 さて、受験のシーズンがやってきました。このシーズンの風物詩ですが、何とか志望校に合格できますようにと、わらにもすがる想いでご利益を求め、受験生や子供の両親がこぞって、神社へ合格祈願にでかけます。浄土真宗の教えにもご利益はありますが、一般に言われているご利益とは、全く性質が違ったものです。
 
 例えば、この合格祈願を阿弥陀様にお願いした場合、願いをかなえてくださるでしょうか。結論から言うと、残念ながら、かなえてはくださいません。何故かと言うと、私たちの願いというのは、必ずといっていいほど、我執(がしゅう)という心が入ってくるからです。つまり、自分を中心に考えた心から生まれる願いであるからです。この合格祈願の中にも、自分が合格する為ならば、誰かが不合格になってもいいという心があるのです。それこそ、誰か他の人を落としてでも合格したいと願う心と同じだからです。他にも、家族や親戚が健康でありますようにと、ご利益を願う心など、一見すばらしい願いのように思えるものにも、やはり我執という自分中心のこころが入ってきます。自分に縁のある人や、自分にとって都合のいい人は健康でいて欲しい。しかし、隣の家族の健康なんて知ったこっちゃない。自分を悪く言う人の健康なんて考えてみたこともないという姿が見え隠れしますね。一切平等に救うと誓われた阿弥陀様が、そういう、我執の入った願いをかなえてくださるとは、とても思えません。
 
 親鸞聖人が尊敬された、善導大師という、中国のお坊さんが、阿弥陀如来様のご利益をこんな喩え話でお示しくださいました。「たとえば人ありて稲を求めん。まったく藁を望まざれども、稲いできぬれば、藁おのずから得るが如し。」
 
 藁(わら)とはこの世のご利益のことで、稲とは後世を願う心、つまり、阿弥陀如来様の救いにおまかせをする心を表します。稲を得るものは必ず藁を得るのと同じように、阿弥陀如来様の救いを信じる者は、おのずと、この世のご利益をいただけるという意味です。阿弥陀如来様のお救いとは、人間としての命終わる時には、必ず仏として生まれさせてくださるハタラキです。そしてご利益とは、そのハタラキにお任せし、真実の信心を得た人が自然と賜るもので、阿弥陀如来様に祈ってみても得られるものではありません。では、具体的に阿弥陀如来様のご利益とは、どんなものでしょうか。
 
 親鸞聖人は、御和讃の中に、息災延命(そくさいえんめい)という、災いが災いでなくなるご利益を、阿弥陀如来様の教えの中から、お示しくださいました。阿弥陀如来様の教えとは、私達が生きていく上で出会う、老いや病の苦しみ、別れの悲しみなど、全ての事柄に意味を与えてくださる教えです。
 
『癌告知の後で』という本を書かれた、鈴木章子(すずきあやこ)さんという方がおられました。この方は浄土真宗のお寺の奥さんですが、癌を患い、四十七歳という若さで、四人の子供と夫を残して、お亡くなりになられました。しかし、鈴木章子さんは、阿弥陀様の教えに照らされ導かれることで、癌と共に生きる人生が、これほどまでに深く素晴らしいものになるのかと驚くばかりであると、おっしゃいました。まず、癌を患い、明日をも知れない我が身の中で、これさえ手に入れば最高と思っていたものが、どれだけ中途半端なものであったかを知ったそうです。財産も肩書きも家族も、いざという時にはすべて置いていかなければならないものばかり。そこで大切なのは、心にどんな宝物を抱いているかであると思ったそうです。その気付きこそが、仏法にであう導きともなったのです。そして、思うようにならない人生だからこそ、当たり前と思っていたすべてのことが、どれほど幸せなことであったかを、気付くことが出来たのです。
 
 お亡くなりになる、二ヶ月ほど前、自宅で静養されている時のこと。章子さんの夫が「夜、知らないうちにお前が息をひきとっても困るから、同じ部屋で寝よう」と声をかけられました。すると、章子さんは、「あなたが同じ部屋で寝てくださっても、いざというとき一緒に死んでいただくこともできないし、代わって死んでいただくことも、死を延ばすこともできない。一人でいても二人でいても同じこと。それよりお父さん、子どものためにも体を休めてほしいから、二階と下と、別々に分かれて寝ましょう」とお答えになったそうです。章子さんが、その時に書かれた「おやすみなさい」という題の詩をご紹介します。
 
「お父さん、ありがとう。またあした会えるといいね」と手を振る。テレビを観ている顔をこちらに向けて「おかあさん、ありがとう。またあした会えるといいね」手を振ってくれる。今日一日の充分が胸いっぱいにあふれてくる。
 
「お父さん ありがとう」の一言の中には二十年余りの夫婦として共に歩むことが出来たことへの感謝の気持ちもあったでしょう。「またあした会えるといいね」と、切なる思いで願ってみても、間違いなく明日を迎えることが出来るという生命の保証はありません。今夜お迎えが来るのかも知れない。永遠の別れの思いをこめて「おやすみなさい」と、一階と二階に別れて寝たそうです。幸い朝が迎えることが出来た時、このご夫婦は、「お父さん、会えてよかったね」「お母さん、会えてよかったね」と心おどる思いで挨拶をかわされたそうです。 章子さんは「四十六年の人生の歩みの間、こんな挨拶を一度だってしたことがなかった。健康にまかせて、忙しい忙しいの毎日で、うわのそらの挨拶しかしてこなかった。癌をいただいたお陰で、一度一度の挨拶も、まるで恋人のように胸おどらせての挨拶ができるようになった」と、喜びの中で語っておられました。
 
 人生には喜びも悲しみも、愛も憎しみも成功も失敗も、健康も病気も、同じようにとりそろえてくれています。むしろ思うようになることばかりの人生では、幸せが当たり前となり、幸せを幸せといただくアンテナがなくなってしまいます。幸せの中にいながら幸せを感じる事が出来なくなってしまうのは、一番不幸なことかもしれません。思うようにならない人生、悲しみや苦しみによってこそ、聞く耳が開け、アンテナを立てさせていただくことが出来るのです。そして、そのことによって教えに出会い、悲しみや苦しみを積極的に〝ようこそ〟と受けて立っていけるのです。鈴木章子さんは「癌をいただいたお陰で、至る所からご説法が聞こえてくる。肺癌で寝ているこのベッドの上が、如来様のご説法の一等席であった」と涙されたそうです。
 
 苦しみや悲しみに出会ったからこそ、初めて気付くことの出来る大切なことがわかった。そして、これがあったからこそ、お浄土へ生まれてく道に出遇えたのだと、災いと思っていたこと全てを拝む心が生まれる時に、苦しみや悲しみに会ってよし、生きてよし、死んでよし、何が起きようとも阿弥陀様と一緒に生きて、共にお浄土へ生まれていくのだと思うことができるのです。それこそが、災いが災いでなくなる阿弥陀如様のご利益なのです。
 

損な人生、得な人生

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最近、気になる言葉に、「損な性格」「損な役割」などという言葉があります。「あんな損な役回りを引き受けてしまうなんて、まったく損な性格だよなぁ」という具合に、テレビのドラマの中などではよく聞きます。そんな会話の締めくくりは、「どうせたった一度の人生なのだから、自分の思い通りに生きなきゃ損だ」という言葉です。
 
 もしも、周りの人に気を使いストレスを溜めているような人間関係の中にあれば、「周りにばかりに流されずに自分の思うように生きたい」という事も必要かもしれません。しかし、「思い通りに生きなければ損だ」という言葉には、私は何か空しいものを感じてしまいます。「こんなふうに生きれば損だ」けれども「あんなふうに生きれば得だ」というのは、自分の人生を損得で勘定しているように思えてなりません。 確かに、人生において「損か得か」「自分に役に立つか立たないか」「楽か辛いか」という基準は必要です。それが生活の中での尺度かもしれません。ですが、それしか私の人生を生きていくための基準がないというのは、いかがなものでしょうか。
 
 また、そこには、自分の命は、自分だけのものとしてしか考えられない心が見え隠れします。人生の問題を損得に置き換えるのは自分の命を自分だけのものと考えている証拠なのではないでしょうか。 自分の命は、言うまでもなく、あらゆる命によって成り立っ
ています。毎日の食事を見てもそれは、一目瞭然です。私たちは他の命をいただかなければ生きてはいけません。だからこそ、食前食後には命を「いただきます」「ごちそうさまでした」と合掌するのでしょう。また、私の命だけではなく、どんな命でも互いに支えあっているものです。ですから、私の命はたくさんの命によって成り立っているといえます。にもかかわらず、私だけの命だと思いあがっていると「損だ得だ」ということになってしまうのです。
 
 命に損得はありません。あるとすれば「尊く生きたか」「無駄に生きたか」ではないでしょうか。その基準からみれば、自分の利益になることのみを選んで行い、いつも楽をして生きること考えて過ごして、得をした人生であったと思っても、自分の人生を無駄に生きたということもあり得ることです。つまり、どんなに得をする人生を生きようと歩んでみても、「自分だけがよければいい」「死んだら終わり」と思って生きているならば、寂しさと不安の中に生きる人生、無駄に生きた人生になってしまします。反対に、どのような辛い人生であっても、「尊く生きた」ということもあり得ます。損をしたことや、思い通りにならなかったことが、無駄な人生を生きたということではく、私の命は仏になるようにと願われた命であることに気づき、多くの命のつながりの中で、「自分だけが」という思いを超えた人生を歩む時、「尊く生きた」と言えるでしょう。どんな人生になろうとも、仏様と一緒に歩む人生には、いつも安心と心強さの中に生きていける人生になるのです。

 

いいところへ生まれる?

 ある時のお葬式の事です。悲しみにくれるご遺族の方々が、お棺に花を入れて、もう一度「最後のお別れ」をしておられました。その時に、ご遺族の中の方が、亡くなられた方の耳もとに向けて、こうおっしゃいました。「いい所にうまれてよ」と。ご病気など亡くなられた場合、ご遺族は「もう苦しまなくてもいいのだよ」と、ご遺体に手を添えて、おっしゃる方もおられます。 ですから、この「いいところ」という言葉には、この世で経験したような苦しみがない「楽なところ」という思いが込められているのでしょう。
 
 また、若くして亡くなられた方の場合、ご遺族は「残りの人生を全うさせてあげたかった」という思いで一杯でありましょう。ですから、「いいところ」という言葉には、「楽しいところ」という意味も含まれているようです。いずれも、ご遺族の心中の思いを察すると、当然のことと思います。一般的に極楽浄土の世界のイメージは、こういった思いからできたものなのかもしれません。
 
 ですが、これだけに終わってしまっては、お浄土が生きている私たちの現在に関わるとはいえません。「死んでから行くいいところ」だけでは、今の私には関係のないという事になってしまいます。本当にそれで良いのでしょうか。
 
 ある先生のお話です。子どもさんを亡くされた女性が、「あの子はいったいどこへいったのでしょうか」と、その先生に質問をされました。先生は、「あなたはどこへいきたいのですか」と尋ねられました。じっと考えておられた女性は、「子どもと同じ所へいきたいです」と答えられたそうです。すると先生はすかさず、「仏様にならなくては誰があなたの子どもなのかわかりませんよ」とおっしゃいました。この言葉を聞いて、その女性は仏法を聴聞されるようになったそうです。
 
 仏教は「仏の教え」であるとともに「仏になる教え」でもあります。人間の苦悩(別れの悲しみ、病気の苦しみ、死の恐怖、生きていく辛さ)の根本を解決して、同時に他の人々を慈しむようになっていくことが、「仏になる教え」です。ですが、私たちは「仏に成る」ことを望んでいるでしょうか。悩んでも苦しんでも、その苦しみを作る根本を見ようとせず、ただ目の前の悩みや苦しみが解決さえすればよい。つまりは「楽になりたい」「楽しければそれでよい」と思うだけです。そういう思いの延長線上にお浄土を想えば、お浄土は「死んでからいくいいところ」でしかありません。
 
 ですが、本当に大切なのは、お浄土が今生きている私にとって、心のよりどころとなっているかどうかということです。普段は不平不満をばかりを言っている私たちが、仏となる道を聞き、恥ずかしさの中にも心強さをいただいて生きていくのです。そして、自分の死なんてまだまだ先の事と勘違いしている自分に気づき、お浄土という私のいのちの還る場所があることを大きな安心とさせていただくのです。阿弥陀経というお経の中には「倶会一処(くえいっしょ)」とありますが、私が仏になるその時には、先だった方とまた必ず会える世界があるのです。大切な方の死を通して、「仏になる道」を聞かせていただきたいものです。
 

お彼岸は亡き人からのよびかけ

 今月はお彼岸です。「暑さ寒さも彼岸まで」言われるように、季節の変わり目を実感する節目としても重要な意味のある行事です。「お彼岸は何をする日ですか?」とお聞きすると、「お墓参りをする日」と答えられる方が、一般的ではないでしょうか。ご先祖様や亡くなった方への追慕の想いでお墓参りされるようです。
 
 私が大学時代、京都ではご法事やお参りなどをすることを「よばれ」と言っていました。「今日は親戚の法事でよばれです」とか、「お寺でよばれです」といった具合です。最初にこの言葉を聞いた時には、法事では食事がでますので、御馳走をいただくとか、案内をいただいていることを「よばれ」と言っておられるのだろうと思っていました。ところが、大学の恩師から「よばれ」という言葉の中には、食事のことだけでなく、亡き人から呼ばれているという意味があることを教えていただきました。今の日常が永遠に続くかのように誤解して暮らしている私たちに、「やがてはいつか死んでいく身を、どのように受け止めて、今を生きていますか」と呼びかけられている、と言われました。
 
 そもそも仏教では、お彼岸にお浄土を想い、自分の命の還る場所をあらためて感じさせていただくものです。普段は日常生活のなかで、自分が死ぬことなんて考えたくもありませんし、自分の思い通りにならなければ不平不満を言い、思い通りになったとしても、また次々と不満が出てきて、あれこれと思い悩むことばかりです。そんな私を顧みる行事でもあります。
 
 それではお彼岸というのは仏教的になんであるかというと、彼岸の反対は「此岸」、この岸なのです。この岸に対して彼の岸なわけです。仏教的には彼岸と此岸ですが、一般的には此方と彼方。彼方と此方をどう区別したかというと、私どもの日常生活ではドロドロごたごたが続き、欲がお互いに張り合っている。毎日のようにそれが繰り返されていく。だから人生は苦しみであるとお釈迦様は悟ったというのです。これが此方です。
 
 苦しみは、歯が痛いとか喉が痛いというのも苦でありますが、仏教はもっと大きい立場から苦を解釈されています。簡単に言えば、思いどおりにならない苦しみです。みなさんの人生は思い通りに毎日なっていますか。違いますよね。一生を通しても思い通りにならないことだらけです。がっかりしたとか、もちろん病気も入ります。そんな思い通りにならないことばかりの私です。それを仏法に照らして見てみると、結局思い通りにならないと苦しみ悲しんでいる原因は、自分の欲の皮が張り過ぎているということや、「私が私が」といつも自分中心に考えて生きていることを知らされてくるのです。
 
 普段は、私の命のはかなさを思わず、自ら悩みや苦しみの種を生み続けている私です。だからこそ尚更、せめてお彼岸の季節だけでも私の苦悩に差し伸べられている阿弥陀様のお救いを聞かせていただく必要があるのです。
 
 如来様のお救いとは、私を不平不満のない良い人間にさせるというものではありません。「生きている間は、不平不満が止まない私達だからこそ、あなたの愚かさを私の心の痛みとして、悲しみ、慈しみ続けたい。命の終わりには必ずお浄土へ連れていく」という救いです。そのままの私がすでに救い中にあること聞かせていただく時、恥ずかしさの中にも心強さと生きる力がわいてくるのではないでしょうか。そして、命の還る場所あると知らされる時、大きな安心を持って人生を送ることが出来るのです。お彼岸は、ご先祖に何かをしてあげるためにあるのではありません。仏となられた方からのよびかけを聞かせていただく機会としていきたいものです。
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