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立徳寺だより

お母さんからの請求書

 先日ある布教使さんのお話をお聞きしましたので、ご紹介します。
 
 あるところに進君という、普段からお母さんのお手伝いをよくする、とても感心な男の子がいました。ある時、欲しいものができたのですが、自分の持っているお金では買うことができませんでした。なんとか足りない分のお金を工面しようと、ある作戦を思いつきました。それは、今までしてきたお手伝いに値段をつけて、お母さんに請求書を出すというものでした。「留守番をしたことがあったから百円、お使いに行ったこともあったから百円、お掃除のお手伝いが百円・・・」と、全部で五百円の請求書を作って、テーブルの上に置いて寝ました。
 
 次の日の朝、急いでテーブルを見に行くと、そこには、請求書の代わりに五百円玉が置いてあったそうです。進君は、作戦は大成功だったと、喜んで学校へ行きました。学校が終わって家に帰ると、お金が置いてあったテーブルに、一枚の紙があるのを見つけました。何だろうと見てみると、表に「お母さんからの請求書」と書いてあったそうです。びっくりした進君は、きっとお母さんは怒っているのだろうと、恐る恐るその請求書を読んでみました。そこにはこう書いてありました。
 
「お母さんからの請求書。
一、あなたが熱をだした時の夜通しの看病代。
一、あなたが毎日汚してくる洋服の洗濯代。
一、あなたが毎日食べてくれるご飯の支度代。
一、あなたが生まれてくれてからの育て代。
 
以上、全部無料。」と書いてあったそうです。子どもの思いも全部分かったうえで、親の気持ちを伝える請求書でした。
 
 進君は、叱られると思っていた自分の思いとは反対に、いつも自分の事を考えていてくれる母親の想いに気が付き、自分のしたことが恥ずかしくてたまらなくなり、泣き出してしまいました。そして、結局その五百円は使わずに、今でも宝物として持っているそうです。皆さんはこのお話をどんな風に感じましたか。
 
 子は、子を想う親の願いによって、自らの恥ずかしさや情けなさを知らされてくるものです。それは、いつも自分の思い通りになってほしいと願い、自分が何かした事に対しては見返りを願って生きている私が、もうすでに大きな願いの中にいることに気付かせていただくからです。
 
 仏様のお心も同じです。自分に都合のよいお願いをかなえてもらうのが仏様ではありません。何の見返りもなく無条件で、「いつでも、どんなときでも、あなたのそばにいますよ」という、すでに私を包み込んでいてくださる仏様からの願いに、喜びをいただくのです。私たちは自分が願うことを止めたときに初めて、願われていることに気が付けるのかもしれません。
 

「どうして年回忌をお勤めするのでしょうか」

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 以前、「どうして年回忌を勤めるのですか」と、ご質問を受けた事がありました。今まで「年回忌を早めてもいいのですか」とか、「二つの法事を一緒に勤めてもいいのですか」などの質問はよくありましたが、そんな風に尋ねられたことはありませんでした。一般的に年忌を勤めるのは、ご先祖様や亡き人の為に勤めるのだと言われますが、そこにはなかなか問題もあるようです。
 
 もしも年回忌を勤めなければ、親戚から苦情がきて「忙しいからって年忌も勤めないなんて、死んだあの人も可哀そう」なんて皮肉まで言われるかもしれません。他にも、施主様側が「普段は顔の一つも出さないくせに、法事となると大きな顔をしてやってくる。わずかな御仏前を包み、たらふく飲み食いをして、よい年忌を勤めたと言って、千鳥足で返礼の品とお膳の残りを折詰にしてもらって帰っていく。ご先祖どころか親戚ばかりに気を使った年忌だ」と、愚痴をこぼしていた方もおられました(笑)。誰かの為だというところに立っていると、多かれ少なかれこのような問題も起こりかねないかもしれませんね。
 
 また、自分の為に勤めるのかというと、そこにはそこで、「ご法事を勤めておけば、ご先祖も悪いようにはしないだろう、何かの時には護ってくださるにちがいない」という計算の心がはたらいているようです。不測の事態が起きると「ちゃんと年回忌も勤めているのにどうして。ご先祖様も役に立たない」と、自分の損得の為のご法事になってしまっては意味がありません。
 
 では、年回忌はいったい何のためにお勤めするのかといいますと、そもそもご法事とは、私達の側からでなく、仏となられた方から私達がいただくものです。たくさんの命のつながりの中で私が人間として生まれた喜び。どんな人であっても必ず終えていく命であるからこそ、今を大切にしていかなければならないという気づき。悲しい別れがあったとしても、仏となってそばに居て下さるという心強さ。私が命終えるその時には、同じ帰る場所がある安心。そんな、亡き人からの命の導きをいただくのが本当の年回忌の意味です。
 
 普段は命について考える事も少ない私達が、せめて年に一度だけでも、亡き人の縁を通して、自分の命について、しっかりと見つめて
いく時間にしていただきたいものです。
 
 

 

老・病・死は異常なこと?

 以前、お葬式でこんなことがありました。前の日のお通夜であった子どもたちが、お葬式では姿が見えませんでした。ご遺族にお尋ねすると、「子どもたちにはあまり死に顔を見せたくないので親戚に預かってもらっている」という返事が返ってきました。子どもたちを想っての事であったと思いますが、それでは家族の中で、本当に大切なことが伝わっていかないのではないでしょうか。
  
 以前、新聞に「首都圏では9割の人々が病気で亡くなるため、日常生活から死が切り離され、老・病・死は異常なものであるかのような考えが生まれている。このように、今の世の中が子どもたちに、老・病・死を忌み嫌わせるような世界を創り出している」という内容のことが書かれていました。亡くなられた方のお骨を拾い、色々な思い出を話すことは、大切な感情を育んでくれます。しかし、現代は死を異常な事として、目をそむけているようです。
 
 仏教では人生を生と死としてみます。生まれたからには死を避けることはできません。まさに生と死は表裏一体で分けて考える事は出来ません。死を異常なものとして遠ざける事は、自分自身のいのちを粗末にする生き方になってしまうのではないでしょうか。
現代の大人がこのままでは、子どもたちにもそんな生き方を強いることになってしまいます。
 
 本願寺8代宗主蓮如上人は、
 わかきときに仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。
 
と仰せになりました。諸行無常のまっただ中にいる今の今、私のいのちの意味を考え、そのいのちの生き方を知ることの大切さを教えてくださっています。それはまさに、身近な人の死を通していのちのありようを聞き、それを伝えていくことの大切さです。
 
 老・病・死は決して異常な事ではなく、ごく自然なことです。仏教では、無常の人生の中で生じる苦悩すら無駄にせず、その意味をみいだし、それを乗り越えていく道を説きます。しかし、それは現実の苦悩が消えてなくなるという事ではありません。仏の教えを聞かせていただくと言う事は、尽きる事のない苦悩を真正面から受け止め、その苦悩に差しのべられてある救いに安心をいただく事です。

お仏壇について

 人口の流動化や核家族化などの社会の変化によって、最近では、何世代にもわたって同じ家に住むことがめっきり減り、次々と新しい家が建ち、また引っ越しも頻繁に行われています。そうして移り住んだ家には、特に若い世代を中心に、昔はどの家にも必ずあったお仏壇が、安置されていないことが増えてきました。
 
 「なぜお仏壇を置かないのですか」と尋ねてみると、不機嫌そうな顔で「まだ誰も死んでいませんから!」とか「お仏壇は田舎にありますから」といった言葉が返ってきます。ですが、“誰も死んでいない”というのは、よく考えてみれば変な話で、“私”につながる数限りない先祖の方が亡くなっていたはずです。
 
 それはさておき、こうした言葉の裏には、お仏壇が今生きている家族の誰かが死んで初めて必要になるというものであり、ご先祖にしても、子孫の誰か一人(多くの場合、長男)が面倒を見れば事足りるという認識があるようです。さらに言えば、お仏壇は“死者やご先祖をおまつりするためのもの”と思っておられる方が多いようです。
 
 しかし果たしてそうでしょうか。お仏壇というのは文字通り、仏様をご安置する壇のことです。仏様とは、ご本尊である阿弥陀如来様のことです。私達のこだわりや苦悩によって、自己を見失いがちになる私をしっかりと抱きしめて、決して崩れることのない安らぎを与えて下さる仏様です。お仏壇は、そうした私の心のよりどころとなり、家庭の精神的基盤となって下さる阿弥陀如来様をご安置するためにもうけるのです。いじめ、家庭崩壊などの心の問題が山積みしている今、家族そろって阿弥陀様に手を合わせることがどれほど心豊かな家庭生活につながるかわかりません。
 
 また、ご門徒さんからこんな質問を受けたこともあります。「これまで、お仏壇にはご先祖が入っておられるとばかり思っていました。確かに阿弥陀様も大事ですが、ご先祖も大切に思っています。お仏壇が先祖をまつる所でないとすると、いったいご先祖は何処におられるのですか」と。
ご先祖様をとても大切にしておられるご門徒さんなのですが、どうしても阿弥陀様とご先祖様を別々の存在として捉えておられるようようです。
 
 「先祖をまつる所ではない」というのは、例えば霊魂のようなものがお仏壇の中に入っていて、その先祖の霊魂を慰めるというものではないということです。 それでは、ご先祖様はどうなったかというと、阿弥陀様のお浄土に生まれられ、阿弥陀様と同じはたらきをする仏様になられたと味わうのです。
 
 したがって、お仏壇は、ご先祖を拝むというよりは、ご先祖が還られたお浄土を偲び、ご先祖をお救いくださった阿弥陀如来様のご本願のお心を味あわせていただくのです。
 
 さらに、ご先祖の願いを聞くと、何も「自分に手を合わせてくれ」と思ってはおられないでしょう。むしろ「真実の親様である阿弥陀如来様のお救いを信じ、力強い人生を歩んでほしい」とねがわれていることでしょう。そうしたご先祖様からの願いを聞き、阿弥陀如来様に心から手を合わすことが、すなわちご先祖様を敬い、感謝することになるのです。

往生は弥陀にまかせて

 先月、和歌山県白浜にある浄土真宗のお寺に、お彼岸法要の布教で行っていきました。温泉街だけに、沢山のお土産屋がずらりと立ち並んでいました。その中で、ふと目にとまった不思議なお土産。それは、持っていると必ず極楽浄土に行くことが出来るという、切符のようなものでした。売れるはずもなく、ほこりをかぶっていましたが、手にとって見ていると、お店の人は必死で私にすすめてくるのです。そんなに私は困っているように見えたのでしょうか。皆さんならこのお土産を買いますか。
 
 さて、昔、広島県に住んでおられた方のお話しです。広島出身の荒森さんは、二十九歳の時に、自動車の運転手をしているうちに、過労で胸をわずらい、余命があとわずかである事を医者に宣告されました。それからというもの、自分のいのちの往く末を、よくよく仏法に聴聞されるようになり、お念仏を喜ばれるようになった方だったそうです。
 
 病気が進み、重体となった時、一人の祈祷師が「病気を治す祈祷をしてあげよう。必ず治してみせます」とやってきました。応接に出た弟さんは「先祖代々うちは浄土真宗だから、そんな教えは聞く必要ない」といって、追い返しました。これを病床で聞いていた荒森さんは、弟さんに「それは乱暴だ。他人の親切に失礼があっていけない。お通しして。」と言うので、祈祷師が呼び戻されました。そして荒森さんは「私は浄土真宗のみ教えをいただいて、この世もあの世のことも、何の不安もなく生きさせてもらっております。因果の道理もしらされました。死は誰もそむくわけにはいきません。いくら自分であせったところで、それで治るわけではありません。それに私の病気はとても進んでいて、今の医学で力を尽くしても治らない状態になっておりますから、祈祷してもらっても、かえってあなたの教えの迷惑になりますから、どうか、もうおいでくださらないように。」と丁寧に挨拶をして、紙に包んだお礼を渡しました。そして弟さんに、「麦を食べてみて、はじめて米の味わいがよく分かる。私達は、浄土真宗という素晴らしい教えに育てられ、ありがたいことだですねぇ」としみじみ喜んだそうです。
 
 いよいよ病が進み、弟さんから「往生は大丈夫か」と聞かれると、にっこり笑って、句を詠まれたそうです。 
 
自(おの)が決め、ゆくはこの世の ひとり旅、後生は弥陀に、まかせてぞゆく
 
 阿弥陀如来様と共に生きる念仏者の喜びが聞こえてきます。
二十九歳という若さで、往生の素懐をとげられた荒森さんが、仏法の教えの中に、自分のいのちの往く末をしっかりとみつけ、大きな安心をいただいているお姿です。
 
 人間の死は不幸な事であると決めつけ、自分のいのちの終わりの事を考えることは縁起が悪いと、目をそむけていく人生は、きっと不安の中に終わっていくことになってしまうのではないでしょか。自分のいのちの問題を解決して、安心の中に生きる人生を歩んでまいりたいものです。
 

何が災いで何が幸福

 先日、買い物に行ったお店の軒先に「除災招福」と書いてあるお札が貼ってあるのを見かけました。仏典の中ではあまり用いられた例はありませんが、字の通り「災いを除いて、幸福が訪れる」という意味でしょう。一見、とても素晴らしい文字の様に思えるのですが、ここでよく考えてみなければならないことがあります。それは「何が災いで何が幸福なのか」ということです。私たちは幸・不幸をどんな時にどんな風に感じているでしょうか。
 
 ある人の体験談です。宝くじを買ったら十万円が当たりました。思わぬお金が入ったので「今晩は僕が御馳走してあげる」と会社の同僚数人を誘いました。上機嫌で一杯やっていると、たまたま同じ会社の人が一人その店にやってきたので「君も来たのか、一緒に飲もう」と合流しました。すると「帰ろうか」とういう頃になって、後から合流した人が「今日はいいことがあったから、ここは僕が全部御馳走する」と言い出しました。一体どんないいことがあったのか、その理由をなかなか言わなかったのですが、しつこく聞かれお酒も入っていたので、彼はついに本当のことを言いました。「実は宝くじで一千万円が当たったんだ」。それを聞いて、さっきまで上機嫌だった人の酔いがいっぺんに醒めました。「いつ、どこで買った」と聞くと、同じ売り場で一日違いでした。それを聞いて思わず「くそっ、俺はなんて運が悪いんだ。損をした」とつぶやいたそうです。
 
 考えてみてください。その人は決して損をしたわけではありません。三百円で買った宝くじが十万円になったのですから。ところが、ほぼ同じ条件で一千万円当たった人を見ると損をした気分になるのです。これは、自分の幸・不幸を他人と比べて感じているからです。つまり、私たちの願う幸せとは、常に他人より幸せ、もっと言えば他人の不幸が前提になった幸せです。もしかするとそれが私たちの思う幸せの正体なのかもしれません。
 
 自分中心の幸せや、相対的な幸せは決して本当の幸せとは言えません。幸せと思って今まで頼りにしてきたものも、いつまで支えになるとは限りません。若さも健康も、地位や名誉、財産。家族や友人も、いつまでも付いて来てはくれません。いつか必ず失うものを頼りにしていては、結局は絶望だけが残ってしまいます。決して無くなることがなく、いつでもどこでも、いのちの底から支えてくれるものでなければ間に合わないのです。 
 
 親鸞聖人は、その頼りとするものは阿弥陀如来様のお救いであり、「畢竟依(ひっきょうえ)」究極のよりどころであるとお示しくださいました。如来様の願いと「除災招福」。似ているようで、根底には大きな違いがあることを考えていかなければなりません。   合掌

絶望しない願い

 いつまでも長生きしたいですねぇ」、「でも歳はとりたくないですねぇ」、ご年配の方からよく耳にする言葉です。ほとんどの方がそう思っておられることでしょう。でも、よく考えると、歳をとらずに長生きするなんて、どうやっても不可能ですよね。それなのに私たちは別々に「長生きしたいですね~」と言われると「うんうん」とうなずき、「歳はとりたくないですよね~」と言われても「うんうん」と共感しています。よく考えれば矛盾していることなのに、何の矛盾も感じないで「そうだそうだ」と思っています。そして、この実現不可能な願いを持つせいで、自分の人生に落胆したり、絶望したりしているのだということに、私たちはなかなか気づくことが出来ません。
 
 お経には「欲が苦を生む」と、説かれてありますが、自分の苦しみのほとんどは、自分の欲望が作っているという教えです。欲がかなわないから苦しみを感じるのであって、欲がなければ、かなわないことは苦しみにはならないのです。当たり前のことなのに、なかなか当たり前と思えないところに、私たちの迷いの姿があるようです。
 
 親しい人との別れもおなじです。自分の命も相手の命も、明日生きている保証はどこにもないはずなのに、今いきていることや一緒に居られることが当たり前と思っていては、いざ別れなければならない時には、大きな苦しみを感じるのです。
そんな私たちが、迷うことなく、人生に絶望することなく生きていける願いがあるとすれば、それは阿弥陀如来様のご本願という願いの中に生きる以外にないように思います。
 
「あなたのいのちを私にまかせてください。私はすでにあなたのいのちを包みこんでいます。いつでもあなたのそばで、そのいのちを育んでいます。必ずあなたを苦しみの無い、仏さまという本当の幸せに導いてみせます。そうすればあなたの人生は決して絶望に終わっていく人生にはなりません」と、力強くよび続けていてくださるのが如来様のご本願です。
 
 悲しいことや苦しいこともあった、恥ずかしいことや情けないこともあった。でも如来様のご本願の中で、生きて良し、死んで良し。良いことが出来ればいいけれども、出来なくてもよし。何があろうと如来様がそばにいてくださるのだと、しっかり受け取ることが出来た時に、絶望の無い人生を頼もしさの中に精一杯生き抜いていけるのではないでしょうか。 合 掌

いつもいっしょのほとけさま

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 先日、子ども会でお聞きした布教使さんのお話をご紹介します。
 
 順ちゃんのお母さんは、順ちゃんが3歳の時、病気で亡くなっています。ですから、お母さん顔を覚えていません。順ちゃんが小学校一年生になった時のことです。お母さんに会いたくて会いたくてたまらない順ちゃんは、ある日家を飛び出し、知らない町までどんどん歩いていきました。「お母さんは遠いところに行ったんだよ」と聞かされていたからです。「お母さーん、僕のお母さん、どこにいるのー」順ちゃんがそう言いながら歩いているのを見かけた町の人が、迷い子だろうと交番に連れて行ってくれました。その頃、順ちゃんの家では大騒ぎです。5歳上のお兄いちゃんが手分けをして探してくれました。お友達に聞くと、「今日はお母さんに会いに行くんだ」とお昼休みに順ちゃんが話していたと言うではありませんか。あたりは暗くなり、途方に暮れていた時、交番から「順ちゃんを預かっています」という知らせがありました。お父さんとお兄ちゃんは急いで交番へ向かいました。走りながらお父さんは、亡くなる前にお母さんが言っていた言葉を思い出していました。交番に迎えに来たお父さんを見るなり、順ちゃんは「お母さんを探していたんだよう、お母さんはどこにいるんだよう。会いたいよう・・・」後は言葉になりません。お父さんは、順ちゃんを力一杯抱きしめ「お兄いちゃんも順もよく聞いてくれ。お母さんは順が三つの時に死んだんだよ。ここに来る途中、お母さんがお前たちに残した大切な言葉を思い出したよ」。お父さんは、お母さんが残した言葉をゆっくり話し始めました。
 
『もっと生きて、あなたや子ども達と一緒にいたい・・・。だけど、もう長くないと思うの。私がいなくなって、あの子達が寂しい思いをすることを考えると、かわいそうでやりきれなくて・・・。きっと私を探すと思うの。その時にはこう言ってあげてね。お母さんは仏様の国に生まれて、“なもあみだぶつ”っていう仏様になってるって。だからいつでもどんな時でもあなた達と一緒にいるよ。寂しい時も、嬉しい時も、つらいことが会った時も、“なもあみだぶつ”って言ってごらん。お母さんはどんなことがあってもあなた達と一緒だよ』お父さんも顔をくしゃくしゃにして泣きながら、お母さんの言葉を子ども達に伝えました。
 
 その時順ちゃんの口から初めて「なもあみだぶつ・・・」とお念仏が出ました。それから順ちゃんは、お念仏をすると、なんだかお母さんに抱っこされて護られているようで、嬉しくて何度も何度もお念仏をするようになりました。「お母さんは、探しに行かなくても、いつも僕と一緒に居てるれる仏様になったんだ」と、順ちゃんは勇気と元気が出たみたいです。 合掌
 

死んでからいい所へ生まれる?

 あるお葬式のことです。お葬式の最後に、ご遺族の方々が、お棺に花を添えて、「最後のお別れ」をしておられました。その時に、ご遺族の中のある方が、亡くなられた方の耳元に向けて、こうおっしゃいました。「いい所に生まれてよ」と。
 
 ご病気などで長い闘病をして亡くなられた方などの場合、ご遺族は「もう苦しまなくていいのだよ」との思いを告げようとされておられます。ですから、この「いい所」という言葉には、この世で経験したような苦しみがない「楽なところ」という意味が込められているようです。
 
  また、若くして亡くなられた方の場合、ご遺族は「残りの人生をまっとうさせてあげたかった」という思いでいっぱいであるからこそ、「いい所」という言葉には、「楽しい世界」へという意味が含まれていることでありましょう。
 いずれも、ご遺族の心中を思いますと、当然のことであると思います。一般に語られる天国や極楽浄土のイメージは、これらの思いからきたものに違いありません。ですが、これだけに終わってしまい、お浄土は「死んでから行くいい所」では、生きている私たちの現在に関わっているとは言えません。つまり、今の私には関係ないということになってしまうのです。
 
 また、昔に先輩僧侶と一緒にお葬儀を勤めた時、子どもさんを亡くされた女性が、「あの子はいったいどこへ行ったのでしょうか」と、先輩に質問されました。先輩は、「あなたはどこへ行きたいのですか」と尋ねられると、じっと考えておられたその女性は、「子どもとおなじところへいきたいです」とおっしゃいました。すると先輩は、「あなたが仏様にならなくては、誰があなたの子どもかはわかりませんよ」とおっしゃいました。この言葉を聞いて、その女性は、それから仏法を聴かれるようになられたそうです。
 
 私たちがお浄土に生まれて行くというのは、私が仏様になっていくことであり、今の私に関わる世界なのです。仏教は「仏様の教え」であるとともに「私が仏になる教え」でもあります。お釈迦様がご出家されたのは、悟りを求め、真理に目覚めるためのことでした。そのお釈迦様以来、仏教の教えを聞く人々は、それぞれ、国や歴史は違っても、自らが人間の苦悩の根本を解決する真理に目覚め、同時に他の人々を慈しむこと、つまり、仏様に成ることを目的とされました。
 
 しかし、私たちは、どれほどこの「仏に成る」ことを望んでいるでしょうか。悩んでも苦しんでも、その苦悩の根本を見ようとせず、ただ目の前の悩みや苦しみが解決さえすればいい、自分が楽になりたい。楽しければそれでいいと思うだけであるように思えます。そういう思いの延長線上だけでお浄土を想えば、お浄土とは「死んでから行くいい所」でしかありません。今の私を見つめ、「私が仏に成る」といことを離れては、お浄土の世界も意味が無いように思えます。合 掌

"読経"の意味

 先日、ある他宗の寺院の前を通りかかった時、境内に停めてある真新しい車にむかって、僧侶の方が読経していました。傍らには、その車の持ち主であろう人物が、合掌の姿勢のまま頭を下げて立っておられました。最初は、何をしているのかわかりませんでしたが、通り過ぎてから、あれは「お払い」をしていたんだなと気がつきました。
 
  私たち浄土真宗では「お払い」や「祈祷」を行いませんので、何か奇妙な場面を目撃したような気持ちになりました。そして、「お払いの必要があるような車なら買わなきゃいいのに」とも思いました。私が奇妙な場面と感じたのは、現代の粋を集めたといっても過言ではない、最新型の自動車にむかっての読経です。これがお墓やお仏壇にむかっての読経であれば、何とも思わなかったでしょう。しかし、よくよく考えてみますと、お墓やお仏壇にむかっての読経も、一つ間違えば奇妙なものになってしまいす。
 
 お経はお釈迦様のご説法を文字にしたものです。日本へは中国語に訳されたものが多く入ってまいりましたが、私
たち浄土真宗では、特に「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」と呼ばれる三つのお経を大切にしております。そし
て、これらのお経に説かれている阿弥陀如来様のお救いを聴き、その救いを慶びとさせていただくのが私たち浄土真
宗の読経であります。
 
 しかし、現実には私たちの中にも読経を何か呪文のように受け取り、お墓やお仏壇にむかって「禍がありませんよ
うに」とか先祖の鎮魂や慰霊のためのものと考えている人も少なくはありません。もう一度浄土真宗のお経の意味を
よく味わい、お仏壇やお墓の意味も併せて考えていかなければなりません。
 
 まず、お経に説かれているのは、私たちの苦しみや悲しみの根本は、自分の中にある煩悩が原因であることが説か
れてあります。普段の生活の中で、すべてが自分の思い通りならないことは、当たり前のことであるにも関わらず、
思い通りにならない時は、そこに怒りや苦しみを感じます。親しい人との別れの悲しみも、そこには我執という煩悩があ
るのです。愛する人には、ずっと傍に居てほしい、変わらないでほしいと願いますが、それも永遠に続くはずがない
のが真実です。人間として生まれた限り、いつか必ず命を終えていかなければならないのですから。まして命には順
番すら決まっていないのです。頭では理解していても、別れに直面した時には、深い悲しみを抱くのが私たち人間です。そんな私たちに説かれた阿弥陀如来様のお救いには、人間の命終わって終わりでない世界があることも説かれてあるのです。必ずまたお会いすることの出来る世界があることを聴かせていただく時に、初めてその苦悩を超えていくことが出来るのではないでしょうか。それがお経の本当の意味なのです。
 
 ですから、お墓やお仏壇での読経は、私たちから亡き方への読経ではなく、阿弥陀如来様や先に仏となられた方からの願いやメッセージを、私たちが心強さとしていただくためのものなのです。 合掌
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