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立徳寺だより

幽霊に思う(2008/5)

 少し季節は早いですが、幽霊について考えてみます。時代劇などで登場する幽霊は、
柳の木の下で、青白い顔をして、足が無い。両手をぶらりと前にさげながら、
「うらめしや~」と出てくるものと相場が決まっています。
 
足が無いのは、一説には江戸時代の画家が足を無くして描いたのが始まりとも言われています。
また、当時のお坊さんが、さまよっている者の姿として、足の無い幽霊の姿を作り上げたという説もあります。
 
この世に未練があり、あの世にも行けず、自分は何処へ行けばいいのか、
ぶらりと垂らした両手で手探りをしている。行くあてが分からず、地に足が着いていない姿を、
足のない幽霊として表したそうです。しかし、よくよく考えてみますと、私達も、自分の帰る命の故郷を
知らずに、この人生を送っているならば、幽霊の姿とあまり変わらない生き方をしているのかもしれません。
 
しかもこの世には、地位や名誉に心奪われている幽霊、お金のことばかり考えている幽霊、
いつでも自分が一番正しく、他の者が間違っていると思い込んでいる幽霊など、思うようにならないことを、
苦しみ悲しみ続けて、いつも「うらめしい。うらめしい」と言っている幽霊の声が満ち溢れているようです。
 
もしかすると、一番恐ろしい幽霊は私達自身なのかもしれませんね。
 
まさに幽霊は、私の迷いの姿の投影です。私の人生が、幽霊のまま終わることのないように、
私の命の帰るところ、そして本当に大切なものは何なのか、よくよく仏法に聴かせていただきたいものです。

"ゴッキー"に思う(2008/6)

 ゴッキーとは、我が家でのゴキブリの愛称です。誰でもゴキブリは苦手だと思いますが、
私は特に苦手で、恐怖でもあります。見つかった時には、悲鳴をあげ、ふるえがきます。
 
そのゴキブリの成虫を先月早くも我が家のキッチンで発見してしまいました。必ずいるだろうとは思いつつも、
姿が見えなかったので、なかなか現実を見据えなかった私。でもそこで私は変わりました。
 
駆除のための薬品や仕掛けを置き、毎晩しっかりと隅々まで掃除をし、ゴキブリ対策を欠かさなくなりました。
私の、きれい好きな奥様への道は、ゴキブリの出現がご縁となりました。人生は何がご縁となるかわかりません。
嫌なことでも、それが私を変えてくださるご縁となるかもしれません。
 
そんなゴキブリへの敬愛を込めて、私は“ゴッキー”と呼んでいます。
でも、できればもう二度とゴッキーには会いたくないので、
どんなに眠くても毎晩の掃除に必死で取り組む今日この頃です。

ツバメの巣に思う(2008/8)

つい先日まで、我が家での会話は、ツバメのことばかりでした。と言うのも、
五月の末頃からお寺の軒先にツバメが巣を作り出し、子ツバメが無事巣立ってくれるよう、
毎日家族みんなで心配していたからです。
 
さて、俗に、ツバメが巣を作ると、その家は繁盛すると言われています。
全く根拠のない迷信と思っていましたが、そう言われるようになったのにも、理由があるようです。
 
ツバメは害虫を食べてくれる益鳥で、古くから人間に愛されてきました。そのためか、
ツバメはあまり人間を怖がらないそうです。ですから、外敵から子ツバメを守るため、
高い建物のある場所で、人間の出入りの激しい所に巣を作るそうです。
 
つまり、人通りの少ない場所には巣を作らず、たくさんの人が訪れる、
店の軒先などに巣を作ることから、そういわれるようになったのだそうです。
 
 立徳寺は本堂ができてから、一年半になりました。法話会などにも少しずつではありますが、
ご参加くださる方が増えてきました。今年来たツバメは、「これからもっとたくさんの方々が、
仏様の教えの下に集うお寺を作りなさい」と、如来様が私を励ましてくださっているように思えた、今日この頃です。

恩を報ずる講(つどい)

報恩講とは、罪悪深重の私たちが、お浄土へ生まれていく道を、親鸞聖人がそのご生涯をかけて、求め伝えてくださったご苦労を偲び、私たちに伝えてくださった、阿弥陀如来のお救いを喜ばせていただく、一年で一番大切なご法要です。ですから、古来より、浄土真宗のご門徒の皆様は、毎年欠かさず報恩講を勤めてこられました。
 
 親鸞聖人がいてくださったからこそ、生きる喜びを与えてくださる如来様の教えに、出会うことができたのだと、報謝の想いの中で勤めてこられたのです。皆様に、金子みすゞさんがお作りになられた『報恩講』とうい詩をご紹介します。
 
 
「報恩講」
 
「お番」の晩は雪のころ、雪はなくても闇のころ。
くらい夜みちをお寺へつけば、とても大きな蝋濁と、
とても大きなお火鉢で、明るい、明るい、あたたかい。
大人はしっとりお話で、子供は騒いじゃ叱られる。
だけど、明るくにぎやかで、友だちゃみんなよっていて、
なにかしないじゃいられない。
更けてお家にかへっても、なにかうれしい、ねられない。
「お番」の晩は夜なかでも、からころ足駄の音がする。
 
 
金子みすゞさんの生誕の地、山口県長門市というところは、浄土真宗の教えが根付く、とてもご法儀の篤いところです。その地域の方言では、報恩講を「お番」と言うそうです。
 
報恩講には大人も子供もお寺に集まり、朝までみんなでご聴聞をされ、大きな火鉢とご法話に、大人は身も心もあたたかくなる。子供は、両親や祖父母に連れられて夜道を歩き、ワクワクしながらお寺に着くと、いつもよりも大きなロウソクやたくさんの人を見て、はしゃいでは叱られている。大人も子供もそれぞれ、心温まる嬉しさに、家に帰ってもなかなか眠れない。
 
この詩の風景は、私が幼かった頃の田舎の報恩講と似ていて、なんだか懐かしさを感じる詩です。報恩講は、私達が心安らぐ温かい御仏の教えを、みんなで聴き、みんなで慶びあう、仲間の集いです。そして、お一人お一人がその教えに照らされて、自分自身の姿をもう一度省みる期間でもあるのです。
 
蓮如上人は御文章というお手紙の中で、「報恩講には、みなさんそれぞれが、親鸞聖人の御影の前で、普段の愚かな行いを悔い改め、自分自身を見つめ直してください。それこそが、報恩講の本当の意味であり、すなわち聖人のご恩に報ずるということなのです」と、おっしゃいました。
 
普段は愚痴ばかりでる愚かな私が、まさに救われていく身であったことを気付き、慶びの中にお念仏を申す身にさせていただくのが、報恩講のご法縁なのです。 

新年に思う(2009/1)

お正月には元旦からたくさんの人々が、神社などへ初詣に出かけます。
三ヶ日を過ぎると、テレビでは全国の初詣番付の発表がニュースで流れます。
 
その映像を見ていると、「家内安全」、「合格祈願」などのお札を
多くの人々がこぞって買っていきます。一般的には当たり前のことと思われがちですが、
浄土真宗のみ教えからみると、その内容をあらためて考えねばなりません。
 
これらの祈願の根本にあるのは、自己中心的な欲望にほかならないからです。例えば、家内安全というのも、
家族の健康を願うことは、悪い願いとは言いませんが自分の家族や知り合いの健康は思ってみても、
隣の家の事なんて知ったこっちゃない。まして、嫌いな人や自分の事を悪く言う人の健康なんて、
考えてみたことも無いというのが本当のところでしょう。
 
また、合格祈願というのも、入学試験に合格したいという思いからの
願いではありますが、その願いも裏を返せば、不合格の人の悲しみを踏み台にした幸福、
他人の不幸が前提となった願いとなってしまうのです。
 
自分に都合のいい欲望だけを祈願によって神仏に満たしてもらいたい。
これが私たちの願いの正体なのです。我々浄土真宗の教えを聞かせていただく者は、
何を真実の心の拠り所としていくべきか、よくよく考えてかなければなりませんね。

最近親しい人を亡くされた方へ

大切な方を失われ、深いご悲嘆の事と、哀心よりお悔やみ申し上げます。亡き方は私たちにたくさんのものを残してくださいました。ご生前のご苦労はもとより、私たちはどんなに愛しい人であっても、必ず別れていかなければならないことを、自らの死をもってお示しくださっているのです。
 
いまや故人は、阿弥陀如来様のみ手に抱かれて、仏となっておられることでしょう。仏様の教えの中には倶会一処(くえいっしょ)という教えがあります。またひとところで善き人と会うという意味です。私たちも、いつか必ず人間の命を終える時が来ます。その時には、今度は仏同士として、お浄土でお会いすることができるのです。それまで、先に仏となっていつでも私たちを心配し、見守り続けてくださっているのです。
 
仏になられた方が、私たちが悲しむ姿を見て、どうしてお喜びになるでしょうか。それよりも、いつでも仏となって傍にいてくださるのだと、心の糧として、この人生を感謝のお念仏の中で精一杯生き抜いていく、そんな姿を見られた時に初めて、故人はお喜びになるのだと思います。
 
親しい人を亡くすことは、とても大きな悲しみです。しかし、その悲しみを、ただただ悲しみのまま終わらせないでください。その悲しみの中から皆さんに、心強さを気付いていただきたいのです。
 
「あなたに会えてよかった。あなたのおかげで本当に良い人生でありました。今度はお浄土でお会いしましょう。それまで、あなたの分まで、精一杯生き抜いていきますよ。いつでも見ていてくださいね」と、悲しみを心強さに変えていくことが、亡き方の死を無駄にしないということです。
 
そして、残された皆様が、この悲しみや苦しみを御縁として、仏様の教えを聞かさせて戴く身になることが何よりも大切なことなのです。
 
 
皆様に「千の風になって」という詩をご紹介します。
 
 
 
私の墓石の前に立って 涙を流さないでください。
 
私はそこにはいません
 
眠ってなんかいません
 
私は1000の風になって 吹き抜けています
 
私はダイアモンドのように 雪の上で輝いています
 
私は陽の光になって 熟した穀物にふりそそいでいます
 
秋にはやさしい雨になります
 
朝の静けさのなかであなたが目覚めるとき
 
私はすばやい流れとなって駆け上がり
 
鳥たちを空でくるくると舞わせています
 
夜は星になり、私はそっと光っています
 
どうか、その墓石の前で泣かないでください
 
私はそこにはいません
 
私は死んでないのです
 
                   (訳 南風椎)
 
 お葬儀の後、火葬をし、ご集骨をいたします。ご遺骨は故人を支えてくださった大事なお骨ですから、大切に拾わせていただいたことと思います。しかし、故人はそのお骨のある、お墓の中にはおられるわけではありません。まして草葉の陰などにおられるわけでもありません。
 
お浄土という命の故郷で仏となって、「安心して生きてください。いつでも傍にいるのですよ。どうぞ気付いてください」と、時には風になり花になり、光となって、私たちをその命の故郷に生まれる、お浄土の道へと導いていてくださっているのです。

草むしりに思う(2009/9)

 毎月第二日曜日の法話会の日が、ひと月の中で一番綺麗な境内になるように、
草むしりをいたします。以前、一日で片付けてしまおうとして、
腰痛になった苦い経験がありますので、今では大体三、四日かけて行います。
 
ですが、やっと綺麗になったと思った境内も、一週間も経てば、あっという間に雑草が覆ってきます。
容赦なく生えてくる雑草に、正直だんだん嫌になってきます。
さて、無量寿経には、人間の愚かな心を「煩悩の草木」と説かれています。
止むことなく生え続けてくる煩悩を、心の中の雑草と表されたのでしょう。
 
私達はご法座などで、仏法を聴かせていただいた時、自らの愚かさに心底気付かされることもあれば、
時には感動するほどの喜びを感じさせていただくこともあります。
 
しかし、日常の慌ただしさの中に戻れば、仏法などどこ吹く風と、怒りや欲、
そして愚痴にまみれた生活を送っています。綺麗にした庭も、放っておけば雑草に覆われるのと同じです。
 
だからこそ、自らの正しい生き方を、常に仏法に問いながら生きていかなければなりません。
仏法はご法座の時にだけ聴かせていただくものではありません。
 
日々の生活の中にこそ必要であり、仏法によってこそ、心の中に生えてくる雑草に気付き、
刈ることもできるのです。それこそが本当のお念仏の人生なのです。
 
そろそろ今月の草むしりの時期になります。私の心の中の雑草に比べれば、境内の雑草は、
まだまだゆっくり生えてきてくれているのだと、自分に言い聞かせる今日この頃です。

彼岸と此岸~二河白道の喩え~

今月は秋のお彼岸を迎えます。彼岸とは極楽浄土のことで、それに対して私たちの生きている世界を此岸(しがん)といいます。この此岸から彼岸へ渡る道、お浄土へ生まれる道を、善導大師という中国のお坊さんが、『観経疏』というお経の中に、「二河白道(にがびゃくどう)」という喩えで書かれています。今回の法話で、少し皆さんにご紹介します。
 
 ある旅人が西に向かって進んで行くと、何もない荒野で火と水の河に出会います。南側に火の河。東側に水の河。河の幅は百歩ほどで、さほど大きな河ではないテキスト ボックス:  けれども、底がありません。ただ橋のように一筋の白い道(白道)はあるのですが、その道は人一人渡れるほどの細い道で、火と水が両方から押し寄せてきています。後ろ側からは賊の群れや、悪獣が自分を殺そうと迫ってきています。
 
前に進んでも、後ろに下がっても、そのまま止まっていても死を免れない状況の中で、白い道を渡ろうとすると、東から「その道を進め」という声。西から「すぐに来てください。あなたをずっと守りつづけますよ」という声がするのです。その声に従い、その道を渡ると、難をのがれ善き友と遇うことができた。という喩え話です。
 
 皆さんならこの絶体絶命のピンチにどうしますか。実はこの旅人は私たち自身の姿を現されています。彼岸と此岸を分かつ火と水の河とは私たちの苦しみの原因となる欲望や、思い通りにならない時の怒りの心を指しています。だから底がないのです。その悪の心が彼岸(お浄土)へ向かう道を閉ざしているのです。
 
地位や名誉や財産に振り回されている、盗賊のような私の心も此岸で渦巻いています。しかし、そんな私たちにお釈迦様は此岸から、「信じて進め」と励ましてくださり、彼岸からは阿弥陀如来様が「私にまかせて、信じてきなさい」と呼びかけてくださっているのです。そして、その目の前にある白道こそが、南無阿弥陀仏のお念仏なのです。阿弥陀如来様のお救いにおまかせをする道なのです。
 
つまり、私たちはじっとしていても必ず人間の命を終えていかなければなりません。そして、欲望や怒りの心を無くすことができない私たちは、その河を渡ってお浄土へ行くことはできないことをあらわされ、ただ阿弥陀如来の救いにおまかせをする道(白道)しかないとお示しくださっているのです。
 
浄土真宗のお彼岸とは先祖供養のためでは決してありません。亡き方が残してくださったご縁の中で、悟りの世界へ渡るための自らの行いを省みる期間なのです。そして、私のいのち終わる時は、お浄土へ生まれるのだという、大きな安心の中で精一杯生き抜くことができる人生に目覚め、お浄土へ向かう人生を亡き方が仏となって、私たちに薦めていてくださることを、あらためて気付かせていただく期間なのです。これからのお彼岸のご法要やお墓参りの時にも、どうぞ思い出してくださいね。                                                合 掌

お盆の縁に聴く

お盆は八月十五日を中心にして行われる仏教徒の一大行事です。お釈迦様のお説きなった「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」という教えがもととなっています。  
 
目連尊者という方が神通力を使って、亡くなった母の居場所を探したところ、餓鬼道で飢えと乾きに苦しむ母の姿を見つけました。食べ物や飲み物を渡しても、口に入る瞬間に燃えてしまうという、苦しみの世界です。自分の力ではどうしようもできない事がわかると、泣きながらお釈迦様に救いを求めました。そして、「安居(あんご・僧侶の勉強期間)が終わった修行僧たちを供養せよ」という、お釈迦様の教示に従って、すべてを捨てて修行僧たちに飯食をふるまいました。すると目連尊者の母は、餓鬼道から天上界に生まれ変わったというお話です。
 
現在では、亡き方の霊を鎮めるといった民族信仰などが結びついて、本来のお盆の意味とは異なることが、あたりまえの様に行われています。例えば、お盆になると地獄の釜のふたが開き、亡き方が戻ってきて、三日経つと茄子の牛に乗せて、地獄に送り返す。なんだか先祖を敬っているのか、いないのか、よくわからない風習もあります。では、浄土真宗の教えを聴く私たちは、どのようにお盆を受け取っていけばいいのでしょうか。
 
そもそも目連尊者の母が餓鬼道に堕ちたのは、我が子の為であれば、他の子供はどうなってもいいという、心の悪が原因であったと言われています。しかし、子を思う母の愛としては、いたしかたないことであるのかもしれません。自分を本当に愛してくれた母であるからこそ、目連尊者はなんとかして救いたかったのでしょう。しかし、この「盂蘭盆経」の教えの一番大切なところは、目連尊者の力をもってしても、直接母を救うことはできず、修行僧たちを供養することで、救うことができたというところです。
 
「供養」というのは、三宝(仏・法・僧)を敬う気持ちを形に表すことです。目連尊者の母が救われたのは、修行僧を供養する我が子の姿を通して、三宝の尊さに気付き、仏法に帰依する心が生まれたからなのです。
 
お世話になったご先祖のために、何かをしてあげたいという気持ちは大切です。しかし、お盆だからお供えをして、お経を読みさえすれば、それで良いというのではありません。お盆という縁の中で私自身が仏法を聴き、浄土へ生まれる真実の教えに目覚めていくことが大切なのです。
 
目連尊者の母が堕ちた餓鬼道とは、いつもあれが欲しいこれが欲しいという欲望に苦しめられている者の姿です。考えてみてください、まさに私たち人間の姿なのです。仏になられたご先祖様が一番望んでおられることは、餓鬼と同じ欲望に苦しんでいる私が、仏となる道を歩んでいくことなのです。
 
                                       合 掌

慚愧(ざんぎ)の心

蛇蠍奸詐(じゃかつかんさ)のこころにて 自力修善はかなふまじ

      如来の廻向をたのまでは 無慚無愧(むざんむぎ)にてはてぞせむ

     

この御和讃は、親鸞聖人が自らを愚禿(愚かな者)と名のり、自分自身も含めて、人間の愚かな姿、不真実の姿への、悲しみ嘆きの想いを詠まれた御和讃です。
 
「蛇やサソリのように、毒のある恐ろしい心をもった私たちが、どれほど自力で善行を積もうとしても、苦しみや迷いから離れることはできないでしょう。阿弥陀如来様のはたらきである、信心におまかせしなければ、恥じ入るばかりの我が身であることに、気付くことなく、この世の命が終わってしまうのです」と詠まれています。  
 
親鸞聖人は、私たちの本来の姿を、無慚無愧と表されました。人間の心の中は、貪り、怒り、偽りといった、自己中心的な想いに満ち満ちており、それを恥ずかしいことであると、気がつくことすら出来ないわたしたちの姿を、厳しく見極められています。だからこそ、そんな心を持つ私たちは、阿弥陀如来より賜る信心を依りどころにしなければ、無慚無愧の身のまま生涯を終わってしまいますと、強い表現でお示しくださっております。  
 
さて、慚愧(ざんぎ)というのは “慚”も“愧”も恥じるという意味です。自分自身を深く恥じる事と、教えに照らされて、恥を知らされる事を表す言葉です。仏法では、 “慚愧無き者は名づけて「人」とせず「畜生」とす”と説かれてあります。私達は普段なんとなく自分を人間だと信じて疑いませんが、仏教は慚愧なき者を畜生と定義しているのです。欲望の庸となり、欲望に狂った時、私達は畜生となっているのです。
 
実際にあったお話ですが、インドのカルカッタというところで、オオカミに育てられた姉妹が発見されました。保護されたばかりの時は、言葉はおろか、お皿を持つこともできず、夜になると遠吠えをする程だったそうです。なんとかコップに水をいれて飲むことは、できるようになったのだそうですが、結局それ以上は、人間らしい生活をする事ができないまま、二人とも数ヶ月で亡くなってしまったそうです。
 
人間は、人間として生まれたからといって、人間らしく生きていける訳ではありません。正しいお育て(導き)に遇い、初めて人間らしく生きていく事ができるのです。正しいお育ての中で、自らの愚かさ、恥ずかしさを知り、慚愧の心をもって生きていくことが、本当に人間らしい生き方なのだと思います。そして、「愚かな心は凡夫であるから仕方がない」と、自らを正当化してしまうのではなく、この身の愚かさを知らせてくださった、如来様のはたらきを慶び、愚かな凡夫が、大いなる如来様のお徳の中に、生かされていることを、感謝し生きていくことが、念仏者の姿なのだと思います。   合掌

 

 

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