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立徳寺だより

損な人生、得な人生

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最近、気になる言葉に、「損な性格」「損な役割」などという言葉があります。「あんな損な役回りを引き受けてしまうなんて、まったく損な性格だよなぁ」という具合に、テレビのドラマの中などではよく聞きます。そんな会話の締めくくりは、「どうせたった一度の人生なのだから、自分の思い通りに生きなきゃ損だ」という言葉です。
 
 もしも、周りの人に気を使いストレスを溜めているような人間関係の中にあれば、「周りにばかりに流されずに自分の思うように生きたい」という事も必要かもしれません。しかし、「思い通りに生きなければ損だ」という言葉には、私は何か空しいものを感じてしまいます。「こんなふうに生きれば損だ」けれども「あんなふうに生きれば得だ」というのは、自分の人生を損得で勘定しているように思えてなりません。 確かに、人生において「損か得か」「自分に役に立つか立たないか」「楽か辛いか」という基準は必要です。それが生活の中での尺度かもしれません。ですが、それしか私の人生を生きていくための基準がないというのは、いかがなものでしょうか。
 
 また、そこには、自分の命は、自分だけのものとしてしか考えられない心が見え隠れします。人生の問題を損得に置き換えるのは自分の命を自分だけのものと考えている証拠なのではないでしょうか。 自分の命は、言うまでもなく、あらゆる命によって成り立っ
ています。毎日の食事を見てもそれは、一目瞭然です。私たちは他の命をいただかなければ生きてはいけません。だからこそ、食前食後には命を「いただきます」「ごちそうさまでした」と合掌するのでしょう。また、私の命だけではなく、どんな命でも互いに支えあっているものです。ですから、私の命はたくさんの命によって成り立っているといえます。にもかかわらず、私だけの命だと思いあがっていると「損だ得だ」ということになってしまうのです。
 
 命に損得はありません。あるとすれば「尊く生きたか」「無駄に生きたか」ではないでしょうか。その基準からみれば、自分の利益になることのみを選んで行い、いつも楽をして生きること考えて過ごして、得をした人生であったと思っても、自分の人生を無駄に生きたということもあり得ることです。つまり、どんなに得をする人生を生きようと歩んでみても、「自分だけがよければいい」「死んだら終わり」と思って生きているならば、寂しさと不安の中に生きる人生、無駄に生きた人生になってしまします。反対に、どのような辛い人生であっても、「尊く生きた」ということもあり得ます。損をしたことや、思い通りにならなかったことが、無駄な人生を生きたということではく、私の命は仏になるようにと願われた命であることに気づき、多くの命のつながりの中で、「自分だけが」という思いを超えた人生を歩む時、「尊く生きた」と言えるでしょう。どんな人生になろうとも、仏様と一緒に歩む人生には、いつも安心と心強さの中に生きていける人生になるのです。

 

いいところへ生まれる?

 ある時のお葬式の事です。悲しみにくれるご遺族の方々が、お棺に花を入れて、もう一度「最後のお別れ」をしておられました。その時に、ご遺族の中の方が、亡くなられた方の耳もとに向けて、こうおっしゃいました。「いい所にうまれてよ」と。ご病気など亡くなられた場合、ご遺族は「もう苦しまなくてもいいのだよ」と、ご遺体に手を添えて、おっしゃる方もおられます。 ですから、この「いいところ」という言葉には、この世で経験したような苦しみがない「楽なところ」という思いが込められているのでしょう。
 
 また、若くして亡くなられた方の場合、ご遺族は「残りの人生を全うさせてあげたかった」という思いで一杯でありましょう。ですから、「いいところ」という言葉には、「楽しいところ」という意味も含まれているようです。いずれも、ご遺族の心中の思いを察すると、当然のことと思います。一般的に極楽浄土の世界のイメージは、こういった思いからできたものなのかもしれません。
 
 ですが、これだけに終わってしまっては、お浄土が生きている私たちの現在に関わるとはいえません。「死んでから行くいいところ」だけでは、今の私には関係のないという事になってしまいます。本当にそれで良いのでしょうか。
 
 ある先生のお話です。子どもさんを亡くされた女性が、「あの子はいったいどこへいったのでしょうか」と、その先生に質問をされました。先生は、「あなたはどこへいきたいのですか」と尋ねられました。じっと考えておられた女性は、「子どもと同じ所へいきたいです」と答えられたそうです。すると先生はすかさず、「仏様にならなくては誰があなたの子どもなのかわかりませんよ」とおっしゃいました。この言葉を聞いて、その女性は仏法を聴聞されるようになったそうです。
 
 仏教は「仏の教え」であるとともに「仏になる教え」でもあります。人間の苦悩(別れの悲しみ、病気の苦しみ、死の恐怖、生きていく辛さ)の根本を解決して、同時に他の人々を慈しむようになっていくことが、「仏になる教え」です。ですが、私たちは「仏に成る」ことを望んでいるでしょうか。悩んでも苦しんでも、その苦しみを作る根本を見ようとせず、ただ目の前の悩みや苦しみが解決さえすればよい。つまりは「楽になりたい」「楽しければそれでよい」と思うだけです。そういう思いの延長線上にお浄土を想えば、お浄土は「死んでからいくいいところ」でしかありません。
 
 ですが、本当に大切なのは、お浄土が今生きている私にとって、心のよりどころとなっているかどうかということです。普段は不平不満をばかりを言っている私たちが、仏となる道を聞き、恥ずかしさの中にも心強さをいただいて生きていくのです。そして、自分の死なんてまだまだ先の事と勘違いしている自分に気づき、お浄土という私のいのちの還る場所があることを大きな安心とさせていただくのです。阿弥陀経というお経の中には「倶会一処(くえいっしょ)」とありますが、私が仏になるその時には、先だった方とまた必ず会える世界があるのです。大切な方の死を通して、「仏になる道」を聞かせていただきたいものです。
 

お彼岸は亡き人からのよびかけ

 今月はお彼岸です。「暑さ寒さも彼岸まで」言われるように、季節の変わり目を実感する節目としても重要な意味のある行事です。「お彼岸は何をする日ですか?」とお聞きすると、「お墓参りをする日」と答えられる方が、一般的ではないでしょうか。ご先祖様や亡くなった方への追慕の想いでお墓参りされるようです。
 
 私が大学時代、京都ではご法事やお参りなどをすることを「よばれ」と言っていました。「今日は親戚の法事でよばれです」とか、「お寺でよばれです」といった具合です。最初にこの言葉を聞いた時には、法事では食事がでますので、御馳走をいただくとか、案内をいただいていることを「よばれ」と言っておられるのだろうと思っていました。ところが、大学の恩師から「よばれ」という言葉の中には、食事のことだけでなく、亡き人から呼ばれているという意味があることを教えていただきました。今の日常が永遠に続くかのように誤解して暮らしている私たちに、「やがてはいつか死んでいく身を、どのように受け止めて、今を生きていますか」と呼びかけられている、と言われました。
 
 そもそも仏教では、お彼岸にお浄土を想い、自分の命の還る場所をあらためて感じさせていただくものです。普段は日常生活のなかで、自分が死ぬことなんて考えたくもありませんし、自分の思い通りにならなければ不平不満を言い、思い通りになったとしても、また次々と不満が出てきて、あれこれと思い悩むことばかりです。そんな私を顧みる行事でもあります。
 
 それではお彼岸というのは仏教的になんであるかというと、彼岸の反対は「此岸」、この岸なのです。この岸に対して彼の岸なわけです。仏教的には彼岸と此岸ですが、一般的には此方と彼方。彼方と此方をどう区別したかというと、私どもの日常生活ではドロドロごたごたが続き、欲がお互いに張り合っている。毎日のようにそれが繰り返されていく。だから人生は苦しみであるとお釈迦様は悟ったというのです。これが此方です。
 
 苦しみは、歯が痛いとか喉が痛いというのも苦でありますが、仏教はもっと大きい立場から苦を解釈されています。簡単に言えば、思いどおりにならない苦しみです。みなさんの人生は思い通りに毎日なっていますか。違いますよね。一生を通しても思い通りにならないことだらけです。がっかりしたとか、もちろん病気も入ります。そんな思い通りにならないことばかりの私です。それを仏法に照らして見てみると、結局思い通りにならないと苦しみ悲しんでいる原因は、自分の欲の皮が張り過ぎているということや、「私が私が」といつも自分中心に考えて生きていることを知らされてくるのです。
 
 普段は、私の命のはかなさを思わず、自ら悩みや苦しみの種を生み続けている私です。だからこそ尚更、せめてお彼岸の季節だけでも私の苦悩に差し伸べられている阿弥陀様のお救いを聞かせていただく必要があるのです。
 
 如来様のお救いとは、私を不平不満のない良い人間にさせるというものではありません。「生きている間は、不平不満が止まない私達だからこそ、あなたの愚かさを私の心の痛みとして、悲しみ、慈しみ続けたい。命の終わりには必ずお浄土へ連れていく」という救いです。そのままの私がすでに救い中にあること聞かせていただく時、恥ずかしさの中にも心強さと生きる力がわいてくるのではないでしょうか。そして、命の還る場所あると知らされる時、大きな安心を持って人生を送ることが出来るのです。お彼岸は、ご先祖に何かをしてあげるためにあるのではありません。仏となられた方からのよびかけを聞かせていただく機会としていきたいものです。

再びまた会える世界

 突然ですが、皆さん死について考える事はありますか。「縁起が悪い事を言わないで」とおっしゃる方もおられるかもしれません。ですが、人間の命の本当の姿は、明日の命の保証なんて何一つないものです。生まれたからには必ず死んでいかなければなりませんし、出会ったからには必ず別れがおとずれます。しかし、そのことに目を背けて生きていては、自分の死や、親しい人との別れがおとずれた時に、何も命の解決が出来ていないままになってしまいます。
 
 さて、皆さんは、死んだ後の世界は、どんな世界だと思いますか。もし、死んで終わりであるならば、到底、死を受け入れることはできませんよね。死ぬのは怖い、心細いと思うのは当然です。ですが、浄土真宗の教えは、死んで終わりではありません。人間の命終えた後には、阿弥陀如来様の世界に参らせていただく教えです。お経の中には、阿弥陀様の世界である極楽浄土の事がたくさん説かれてありますが、難しい事よりもなにより、先立たれた方が待っていてくださる世界がある。必ずまたお会いすることのできる世界に参らせていただくことができる。その心強さこそが、浄土真宗の教えの一番大切なところです。
 
 自分がどこに往くのか分からないまま死んでいくのでは、あまりに寂しく、不安なものです。愛する人がどこに往かれたのかも分からないままの別れは、だただ悲しみに終わってしまいます。私がどこに往くのか、亡くなられた方をどこに見送ったかということをしっかり心に頂いていなければなりません。だからこそ、生きている今、私たちが命のかえる場所を教えに聞かせていただかなければならいのです。
 
 私もいつか人間の命終えるその時には、「先立って往かれた方が、待っていてくださる所に、私も参らせていただきます。そして今度はお浄土で、私もあなたを待っているからね、安心していてくださいね」と、お別れできればいいなと思っております。逆に誰かを見送る立場になった時には、「この方はこれからお浄土へ参られていく。先に往って私たちを待っていてくださるのだから、精一杯生き抜いて、再びまた会える世界がある。まっていてくださいね。」とお別れしたいものです。浄土真宗のみ教えをいただく私たちは、死んだらもう永遠に会えなくなるのではなく、また再びお浄土で会うことのできるお別れなのです。
 
 さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならず、まちまいらせ候ふべし。  
 (親鸞聖人御消息)
 

正しいつもりの善人

 我が家では、息子をお風呂に入れるのは、基本的に私の役目です。先日、いつものように息子をお風呂に入れ、顔や頭を洗ってあげるのですが、息子の口の周りには、たくさんのチョコレートがついています。いったいどんな食べ方をすればこんなにつくのだろうと、不思議に思うくらい汚れています。「もうちょっと綺麗に食べられないの」と息子の口の周りを洗っている時、ふと、お風呂場の鏡にうつった自分の顔を見ると、私の口にもチョコレートがついていました。息子にばれると父親の面目丸つぶれです。そそくさと拭き取り、何事もなかったようにしていました。皆さんもこんな経験はありませんか。
 
 自分以外の人の汚れはよく見えても、自分自身の汚れはなかなか気が付かないものです。そして「あなたの顔が汚れていますよ」と、おしえられた時には感謝できますが、「あなたの心が汚れていますよ」と言われると、はたして感謝できるでしょうか。
 
 鎌倉時代、無住禅師という方が書かれたといわれる『沙石集』の中に、こんなお話があります。ある時、四人の僧が一本のロウソクをまん中に置いて、無言の行を始めました。無言の行とは、その最中は、口から声を出してはならない、つまり話してはいけないという行です。やがて、一日が過ぎて夜になりました。夜風が吹き、戸がカタカタ揺れます。しかし、気を散らさずに黙っています。そのうち すきま風でロウソクの炎が揺らぎます。心も少し揺らぎます。ですが、口を開いてはなりません。ところが、強めの風が吹いたとたん、ロウソクが消えてしまったのです。「あっ、火が消えた!」思わず、一人の僧がしゃべってしまいました。すると、もう一人の僧が、「こら、今は しゃべっては いけないのだぞ」と注意しました。そして、別の僧が、「しゃべるなと言いながら、そう言うお前がしゃべっているではないか!」と、やはり、しゃべってしまいました。これで、三人とも無言の行は失格です。そこで、ずっと黙っていた最後の一人が、「結局、しゃべらなかったのは、私だけだ」とつぶやきました。つまり、全員失格です。
 
 こんなふうに、私たち人間は、他人のことはよくわかるが、自己自身のことは、なかなかわからないものです。でも、自分のことを一番よく知っているのは、自分だと思っています。自分のことは、「確か」で「正しく」て、その思いを離れられない。だから、その自分にとらわれて、周りの人を責めてしまう。善い事をしたら、その善い事にとらわれて、善い事をしていない人を見下したりします。自分の本当の姿は「正しいつもりの善人」なのです。
 
 阿弥陀如来様は、そんな思いや我執(とらわれ)に縛られている私に対して、「自分が正しいという思いやとらわれこそ、一番危ないのですよ。ほんとうの自分の汚れに気付いてくださいよ」とはたらきかけて下さっているのです。自分では気付けない自分の汚れは、誰かに指摘されても、なかなか素直にうなずくことも出来ないかもしれません。仏法という鏡に自分をうつして見ることで、初めて知らされてくるのです。そして、そんな愚かな私だからこそ、心配でならないというお救いが如来さまのお慈悲なのです。

納骨の決心がつきました

 先日、あるご門徒さまのお納骨の法要を勤めました。お葬式から八年。納骨の決心がなかなかつかず、ずっと自宅のお仏壇に置いてありました。きっと、お骨を収めると、もう身内の縁が切れてしまうと思われたのでしょう。納骨を決心されるまで年数が経ちましたが、私はこの歳月というのがとても大切だと思っています。お骨というのも、簡単に言えば「ほね」です。火葬されて残った「ほね」です。極端に言えば物質です。しかし、それが身内のものであるから、「ほね」であっても大切に扱うのです。
 
 昔、「人間死んだらゴミになる」とおっしゃった方がいましたが、少なくとも身内の死を縁として、生死無常のことわりを知り、両手を合わす身にならせていただいたものをゴミのように扱えるはずがありません。そこで、一定の場所に納骨をして、遺徳を偲び、感謝をさせていたくのです。そしてお骨ですから、長い年月が経てば、土に還っていくのです。それでいいのです。たとえ土に還ったとしても、亡くなったものは「はたらき」として、わたしの中に生きているのです。
 
 ですが、愛していた人のお骨であればなおさら、こう考えることが出来るようになるには時間がかかります。ご門徒さんが納骨を決心なさったのは、亡くなったものはお骨ではなく、仏となってそばにいてくださるのだと、何度も重ねてきたご法事などで、仏法に触れ、歳月をかけて感じとられたからに違いありません。私は、歳月が心を育ててくれるということを忘れて、納骨することばかりを薦めて、かえってプレッシャーをかけてしまっていたのかもしれません。
 
 そもそも人間というのは、見たら見た物に、聞いたら聞いたものに、持ったら持ったものに心を縛られて生きています。お骨にしても、長年苦楽を共にしてきた身内のお骨を前にすれば、さまざまな想い出が蘇ってきます。それを火葬してお骨になったからといって、すぐに手放して納骨することなんてとても出来るはずがないと思うことも当然かもしれません。悲しみのどん底におられる方に、お骨が亡き人であるわけではないとお伝えしても、通じるはずがありません。歳月をかけて仏法を聞き、やがて心に響いてくるものです。その時に初めて、お骨にとらわれることなく、仏となられた方からのはたらきとして感じることが出来るのです。
 
 昔から「時が解決してくれる」といいますが、心の面では特にこの時間というのが大切だと思っています。大学の頃に読んだ仏教書を今読み返してみると、あの頃には気付けなかった素晴らしさや感動が分かってくるのも確かです。すると年をとるということも有難い事だなといただけてきます。もちろん、いたずらに歳月を重ねることがいいということではありません。迷いや苦しみの時間を経て、仏法を聞く縁の中で見えてくるものがあることを、しっかりと聞かせていただきたいと思います。
 

悲しむ力

 お葬式の時に、ご遺族の会話で「悲しいことは早く忘れた方がいい」という言葉を耳にしました。愛する人との別れの悲しみを正面から見つめることは、とてもつらいことです。早く忘れて、出来ればなかったことにして、いち早く平静を取り戻したいと願うのも、当たり前のことかもしれません。しかし、そこに悲しみがある以上、やはり私たちは目をそらしてはいけないと思います。悲しみは人間にとってごく自然な感情です。それに蓋をしてしまうと、本当に大切なものまで見えなくなってしまいます。悲しむということはとても大事なことなのです。
 
  皆さんが、お通夜やお葬式で故人を見送り、四十九日や一周忌の法要を丁寧にお勤めされるのは、その間に個人を偲びながらも、しっかりと悲しむ時間をもつためでもあると思います。その悲しみを通して、その人のことを生涯忘れず、自分の心に刻んでいくのです。そして自分の心の中に亡くなった後もずっと生き続けていくのです。つまり悲しみがあるということは、亡くなった人の事を思い続けていくことが出来るという力を、悲しみを通していただいているのではないでしょうか。人間にはそんな悲しむ力があると思います。もしかすると動物には人間ほど悲しむ力が与えられていないのかもしれません。人間はそうゆうものが与えられているということを、大切にしていくべきではないかと思います。
 
 また、人間というのは、生きている間は、お互いに意地を張って、悪いところを見つけては文句を言いたくなるのかもしれませんが、亡くなった後は、今度は良い面ばかり見えてくるようになるものです。ですから、亡くなった後にもう一度思い返してみることも大切なことなのです。自分の考えより、相手の想いやご恩を素直に受け止めることもできるでしょう。そこに、本当の意味でお互いにもっともっと近づきあえるものがあるのではないでしょうか。
 
 その中で、先立っていかれた人の思いを、残されたものが受け継いでいくのも一つの縁であります。残していく人たちに、ああなって欲しい、こうなって欲しいという、後ろ髪を引かれる思いで私達を心配しながら亡くなっていかれた方もおられるでしょう。そこで、その人の気持ちをしっかり受け止めて、「あなたが悲しまないようにしっかり生きていくからね。お浄土で遭った時には、あなたに褒めてもらえるような私になるからね。」というのも立派な生き方だと思います。
 
 浄土真宗の教えは、人間のいのちが終わっても終わりでない世界があるという教えです。先にお浄土へ往かれた方は、永遠の眠りについているわけではありません。阿弥陀如来様と同じはたらきをする仏様としていのちをいただくのです。この私達の世界にもどってきて、いつでも私のそばにいてくださるはたらきです。私と共に苦しみ悲しみ、共に喜び、お浄土という同じいのちのかえる場所へ導いてくださっているのです。
 
かならずかならず一つところへ参りあうべく候 『親鸞聖人御消息』

「常識、非常識」~喪中ハガキ~

 新年を迎え、元旦に届く年賀状を見るのが、一年の最初の楽しみです。しかし、恥ずかしながら私は、毎年元旦に届くかどうかギリギリでいつも年賀状を作っています。というのも、喪中のハガキなどが届いているので、出す人出さない人を分けていかなければなりません。喪中ハガキが届いているのに、年賀状を出せば、受け取る側がどんな風に思うかと気を付けます。皆さんもそんな経験がありますよね。でも、もし私自身がいわゆる喪中となった時には、喪中ハガキではなく、年賀状を出そうと思っています。こうした行為、皆さんは「非常識だ」と思いますか?
 
 一般常識の「喪中」とは、身内を亡くした家族は、新年のお祝いなどの慶事から辞退をするという考えのようです。ですが、以前、喪中だったある方に、「お正月はどうお過ごしになられましたか」と尋ねると、「いやぁ、親戚達も大集合で孫たちも来てくれて、大賑わいで楽しいお正月でした」という返事が返ってきました。悲しみの中にも、明るいお正月を過ごされたことは、とても良かったと思いました。ただ、一般的に、身内が亡くなれば喪中ハガキを出し、喪に服するのが常識と言っても、どのように過ごせば良いかわからないという方も多いのではないでしょうか。そもそも「喪中」の本当の意味は何なのでしょうか。
 
 この「喪中」というのは亡き人を「穢(けがれ)たもの」と見ることからくる考え方です。「清め塩」と同じ発想です。死の穢れを拡散させないために、喪に服して謹慎するというものです。こうゆうものの見方は、極端なこと言うと、亡き人に対する冒涜のように思います。きっとそんなつもりで喪中をしている方はおられないと思いますが、一般的な「常識」をよく考えなおしてみる必要はあるようです。
 
 浄土真宗を開いた親鸞聖人は、お弟子さんが亡くなられたと聞いた時に、「うれしく候」とご返事を書かれました。親しい人が亡くなった時に「うれしい」という感覚。「親鸞聖人は非常識な人だなぁ」と思いますか?きっと親鸞聖人であっても、親しい人を亡くして、悲しくないはずはありません。無量の死の縁に触れれば、人はいつか必ずいのちを終えていかなければなりません。ですが、人がそのいのちを終えるということは、それで終わりではないのです。「穢れに終わるいのちではなく、仏として生まれていく尊いいのちである」と親鸞聖人はいただかれたのです。ですから「うれしい」とおっしゃったのです。
 
 こうした教えは、私たちの常識を超えたものです。非常識でなく、常識を超えた仏教の世界が広がっているように思います。喪中などの一般の常識を軽々と超えた、心強い真実の教えに出合わせていただくのが仏法なのです。

苦しみの原因

 生きている限り、煩悩が離れることなく、苦しみ続けているのが人間です。なぜかというと、その苦しみの根源は自分にありながら、苦しみの原因を、正しく知らないからです。幸せを求めても、それが本当に幸せになるものか見定めなければ苦しみになるのです。例えば、こんな笑話があります。
 
 昔、飲み水を売る水屋という職業があったそうです。休みはなく、賃金も安いうえ、重い水の入った桶を運ぶので、年を取ると大変な仕事です。ある水屋が、たまたま富くじを買うと、見事に千両が当たりました。風呂敷きに包んで持ち帰り、「これで水屋から足を洗える」と大喜び。ところが、小判を隠す時になって、はたと困ってしまいました。つづらの中の古着に隠したらいいか、仏壇に隠したらいいか、どこも心配だと、結局、縁の下に隠すことにしました。しかしそれからは、周りの者が皆、盗人に見え、風呂に行くのも気が気でないのです。おちおち寝ることもできず、床に就けば、夢の中で強盗に殺される。仕事の前には、縁の下を棒でつついてコツンと当たるのを確かめて、出掛けるのが日課。夜、寝る前にも確認し、夜中に目が覚めると、縁の下に行って、コツンとやらねば安心できない。フラフラになって、それでも、毎日コツンと確かめているうちに、それを見ていた隣の男が、そっくり盗み出してしまいました。水屋は、荒らされたのを知り、慌てて確かめると、さあ大変。金はすっかりなくなっていました。そこで水屋が一言、「ヤレヤレ、これで苦労がなくなった」と胸をなでおろした。というお話です。
 
 無ければ無いで苦しみ、有れば有るで、それがまた不安の種になるのです。健康だ、金もある、財もある、恋人もいる、明るい家庭もあると言っても、結局はシャボン玉のふくらみでしかありません。変わりゆくものを心のよりどころとしてしまうことが苦しみの原因であると仏教には説かれてあります。
 
 親鸞聖人のお言葉に「四苦八苦の中に愛別離苦これ最も切なり。」とあるように、愛しい人との別れは、苦しみの中でも最もつらいものです。しかし、その別れの苦しみでさえも、原因は自分の中の執着でしょう。変わってほしくない。と思う心と、変わらずに有り続けるものなどないという現実に、苦しみつづけるのです。
 
 そんな、とても一人では解決することのできない苦しみの中に生きている私たちを救いたいと願いを立てられたのが、阿弥陀如来様のご本願です。私たちが、自らその苦しみを無くし、悟りを開いて仏になることが出来る人であれば、如来様は、あなたを救いたいと願いを立てる必要なんてなかったのです。苦悩を捨てきれない私達であると見抜いたからこそ、救わずにはいられないと、願いを立ててくださったのです。如来様の教えは、苦しくても苦しいと思ってはいけないとか、悲しくても泣かずに頑張りなさいという教えではありません。悲しい時は思い切り泣きなさい、でも私がいつでもそばにいます。その苦しみや悲しみをすべて私が引き受けて、本当の幸せに連れて行きます。という慈悲の心なのです。
 

信心を得るとは?

 「どうすれば、信心を得られるのでしょうか」という質問をされたことがあります。浄土真宗の教えを真面目に学ばれているからこそ出てくる問いであります。
 
 しかし、その問いの中には、信心が得られた状態とは、きっとこんなふうではないかと、勝手に想定しているところがあると思います。それに対して自分はまだまだそこには至らないから、「どうすれば信心を得られるのか」という問いが出てくるのです。そして、自分の心もいつか、信心のある状態に成長していくとも考えておられるからではないでしょうか。「もっと勉強すれば得られるかもしれない」とか、「いい先生のお話を聞けば、なんとかなる」と期待をして、今は駄目でも、いつか信心を得た状態にならねばと考えてしまうのでしょう。
 
 ですがそれは、「たった今、ここにしか」命がないという事態を見落としていると言えます。明日も命が続くと仮定した上での話は、仏法にはありません。常に死を目前において、生と死を一つに見ていくのが仏法です。阿弥陀様にとっては、私に信心を得た実感があろうと無かろうと問題ではありません。そんなことより、いつ死が訪れるかもしれない私を心配されているのです。
 
 ですから、阿弥陀様は、私が何かになるのを待っておられる訳ではありません。阿弥陀様のお救いは、「たった今、ここで」のことです。過去に「仏法を聞いて、有難い気持ちになったから大丈夫だ」と自分の心を頼りにしていても、役には立ちません。逆に、「将来信心を得ることが出来るかもしれないが、今はまだ駄目だ」と思っているのであれば、「たった今、ここで」の阿弥陀様のお救いに気が付くことは出来ないかもしれません。
 
 ある仏教学研究の先生は「私が今までやってきたことは、みな嘘であった。ただ、私には何もない事が知らされた。これが信心である」と表現されました。私には救われていくのに役立つものは何もない、あるのは救いたいという阿弥陀様のはたらきだけという意味ではないでしょうか。何もないから南無阿弥陀仏があり、南無阿弥陀仏があるから何もいらないということです。「たった今、ここで」、何もない私がすでに、救いの中にある喜びであり安心です。自分が何かを信じ、自分で何かを積み重ねて結果を得たいという考えが打ち消されてこそ、阿弥陀様のお慈悲の世界です。
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