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立徳寺だより

私一人のための救い

如来の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして

回向を首(しゅ)としたまひて 大悲心をば成就せり

 

「阿弥陀如来様が一切すべてのものを救うと誓われた、ご本願のいわれを尋ねると、苦しみや悲しみに苦悩する人間を見捨てることができず、私たちに大きな慈悲の心を照らすことを第一として、ご本願を建てられたのです。」という意味です。

 
さて、私には五歳になる娘がおります。先日娘が「どうしてお父さんは力持ちなの」と突然質問をしてきました。「お父さんの方が筋肉があるからだよ」と答えると、「どうしてお父さんの方が筋肉があるの」と尋ね返してきます。
 
一瞬嫌な予感はしましたが、「それはお父さんの方が体が大きいからだよ」と答えると、やはりまた「どうして体が大きいの」と。アニメ一休さんの“どして坊や”のような質問攻めをしてきました。その場は何とかごまかしましたが、一体何が聞きたかったのか疑問に思っていました。
 
何日かたったある日のこと、お気に入りのぬいぐるみに向かって「私がいるから大丈夫よ」とつぶやいている娘の姿に、あの時の質問の意図が分かりました。
 
早速娘を呼び、「お父さんが力持ちなのは、ののちゃん(娘)を守ってあげるためだよ」と言うと、「うん。わかった。」と満足気な顔で抱きついてきました。
娘は、どうして私が力持ちなのか、科学的な根拠を知りたかったわけではなく、どうして私が力持ちでいるのかを聞きたかったのでした。
 
如来様のお救いを聴かせていただく姿勢も本来そのような姿勢でなければなりません。如来様の救いに対して、どんな力で救ってもらえるのかと疑い、この世のご利益や、お浄土の楽ばかりを聞きたがる私たちです。しかし、本当は、どうして私を救わずにはおられないと、願っていてくださるのか、如来様の慈悲の心を聴いていくことが一番大切なのです。
 
「慈悲」とは、相手の苦悩に、「辛いね、悲しいね」と共感する「悲しみ」の心であり、一切の見返りを求めず、その人の幸せをどこまでも願う「慈しみ」の心であります。それは「悲しみ」に根源があり、相手の痛みに共感するからこそ、相手の幸せを願う事ができるのです。
 
阿弥陀様が願いを起こされたのは、苦悩の真っ只中にある私を放ってはおけないと、私の苦悩に寄り添い、その苦悩を抜き取るためであります。「あなたを見捨てる事が出来ない」という、私に向けて建てられた願いなのです。
 
常に私の前に横たわっている老病死の問題を、他人事ではなく、私のこととして知らせて頂き、あらゆる苦悩を持つ私のために如来さまが、苦しんでいて下さるのです。どのような困難に出会っても、私一人のための本願であったことに感謝し、慶ばせていただきましょう。
 
「我常に如来と共にあり」といいますが、私の愚かさや苦悩を、どれだけ悲しんでおられるかと思うとき、感謝のお念仏の日暮を送られていただきたいものです。

お彼岸の心得 ~お墓参りは何のため~

今月は春のお彼岸を迎えます。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、近年の異常気象を考えますと、このフレーズが合わなくなる時代もそろそろ到来するかもしれません。
 
さて、彼岸とは読んで字の如く、向こう岸(浄土)のことであります。仏法では、こちら岸(人間界)から彼岸に渡る道、つまり浄土に生まれる道を教えてくださるものであります。それは、今私がすばらしい人生を送る道と言い換えることもできるのです。
 
さて、お彼岸というと、皆さんはどんなイメージがありますか。どうしてもお墓参りのイメージが強いでが、なぜお彼岸にお墓参りをするのでしょうか。
 
そもそも、お彼岸だからお墓参りをしなければいけないとういわけではありません。お墓参りは、心に思いが起こったら、いつ行ってもいいのです。たとえ命日であろうとなかろうと、懐かしい思いが起ったり、苦しい胸の内を打ち明けたくなったり、嬉しいことを報告したくなった時には、いつでも行くのが良いと思います。
 
例えば、受験の合格、結婚、入社など、人生の転機を迎えたら、ご先祖様に報告に行く事を勧めます。
 
私の今の人生は、たくさんの命のつながりの中にあることや、仏となられた方々が、いつも私を勇気付けていてくださることを改めて感じさせていただくことが出来るからです。お墓参りだけでなく、年回忌のご法事も同じ意味合いでお勤めいたします。
 
現代では、お墓参りの代行サービスなんてものもあります。確かに、お墓参りが出来ない方に変わって、お墓の掃除をしてきてくれるというのはいい事のように思えますが、それだけでは本来のお墓参りの意味がまったく無くなってしまうのです。
 
このお彼岸という行事は、私達が仏になられた方の願いに遇わせていただくためのものです。亡き方の願いとは、仏様の願いと同じです。仏様の願いとは、慈悲ともいいますが、私の人生に安心と心強さを与えてくださる導きをいいます。
 
いつでも亡き方は仏となって、嬉しい時も悲しい時も、私たちと一緒に喜び、悲しんでくださっているのです。先立った大切な方をこの私を導いてくださる存在として手を合わせていくことは、とても尊いことなのです。
 
そして、仏の世界に生まれられたご先祖方を偲び、やがて、自分も、老い病み死んでいかねばならない者であることを自覚する期間なのです。だからこそ、すべての者を、彼岸に救うと願っていて下さる、仏様の教えに耳を傾ける事が、何より大切なのです。  
 
毎年迎えるお彼岸は、私たちが、お浄土へ生まれる道をあらためて聞かせていただく中で、私の人生の終着地点を思い、先に浄土へ渡られた方からのはたらきに、私が心強さをいただくご縁なのです。浄土真宗では毎日がお彼岸といってもいいでしょう。
 
       合 掌

眠りたる吾子を背負いて大花火   釋法蓮(法子)

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只今、花火大会の最盛期です。連日、何処かしらで大小様々な大会が行われています。私は花火が大好きなので、出来る限り行きたいと思っているのですが、反面とてもめんどくさがりなのです。人が多い中で長時間見物するのも、途中で飽きてしまい、すぐ帰りたくなってしまいます。ですから、毎年テレビ中継でやっている大江戸花火大会は、家に居ながら近くで観ることができ、解説までしてくれるので、私にとっては最高です。こんな横着者が花火好きなどというのは、少し図々しいかもしれませんね。

 そんな私でも、とても気に入っている花火大会があります。ある自治会の夏祭りに行う花火なのですが、打ち上げている時間は、たった五分ほどです。しかし、すぐ近くの湖から打ち上げているので、ド迫力の花火なのです。真上に上がっているので、その間にもう首が痛くなってしまいます。あまりに近いので火の粉も降ってきます。花火には、遠くで観賞する、「遠花火」というロマンチックな言葉もありますが、この花火は正反対の「大花火」でした。

 花火が終わり、ふと気付けば、娘は夫の背中で、花火を見ることもなく寝ていました。この爆音の中で寝ることができるとは・・・。今年は是非この特大の大花火を最後まで見せてあげたいと思っています。

 

後生の一大事を心にかけて ~死への心構え~

だれのひともはやく後生ごしょう 一大事いちだいじを心にかけて、阿弥陀仏あみだぶつとふかくたのみまいらせて、念仏ねんぶつもうすべきものなり 。    文章・五帖十六通)

今月いただきましたのは、蓮如上人のお手紙「白骨の御文章」の中の一文です。
 
皆さんは死への準備はできていますか。この時期、受験や就職などを控えた方々は、その一大事に備えて、勉強や準備に力を尽くしています。ところが、人生の最大の一大事ともいえる死に対しては全く準備していないように思います。
 
経済の発展や医療の進歩が著しい現代においては、高齢化が進み、なおさら自分の死を見つめることは難しいのかもしれません。ほとんどの人が何の心構えもないまま死に臨んでいます。
 
本当は誰しも生まれた瞬間から、死に向かって歩き続け、いつそれが訪れるかも分からないのにもかかわらず、自分の死など遠い未来のように遠ざけてしまっています。身近な人の死や自分が重い病を患って初めて、死の不安や生きていく意味を考えることができるのかもしれません。
 
仏法は私がこの世に生まれた意味、死の不安を乗り越えていく世界を知らせてくださるものであります。
 
以前の寺報でも取り上げさせていただきましたが、『癌告知の後で』という本を書かれた、鈴木章子(すずきあやこ)さんという女性がおられました。この方は北海道の浄土真宗のお寺の坊守さんですが、癌を患い、四十七歳という若さで、四人の子供と旦那様を残して、お亡くなりになられました。その鈴木章子さんがご生前書かれた詩をご紹介します。
 
死の別離の悲しみの向こうに  大いなるふる里の
 
灯りが見える     慎介、啓介、真弥、あなた   
 
この灯りをめざして    歩んで欲しい    あなた・・・
 
 私の還ったふる里    子供達に教えてあげて
 
 
鈴木章子さんは、阿弥陀如来様の教えに照らされ導かれることで、癌と共に生きる人生、自らの死という不安に直面しながらも、必ず私を浄土という命のふる里へ迎え取ってくださる、阿弥陀如来の救いを喜び、すばらしい人生を謳歌していかれました。
 
蓮如上人が語られる「後生の一大事を心にかけて」とは、死の不安や苦しみから抜けられずに、むなしい人生を送ってならないと、深い戒めが込められています
 
必ず救うと誓われた阿弥陀如来様の慈悲に出会わせていただく時、私がこの世にいのちをいただいたのは、その教えを聴かせていただくために与えられた一日一日であり、心強さと安心の中でお念仏申すために恵まれた人生であると気付かせていただけるのです。
 
 
 
        合 掌

「新年の心得」~蓮如上人のおさとし~

毎年、お正月を迎えると、いつも思い浮かぶお言葉があります。『蓮如上人御一代記聞書』という書物に書かれている、「道徳はいくつになるぞ道徳念仏申さるべし」という、蓮如上人のお言葉です。
 
これは明応二年(一四九三)の元日、蓮如上人が門弟の道徳さんに向かって語られたと伝えられている言葉です。道徳さんは、新年のご挨拶にうかがったのに、蓮如上人という方はいきなり、「道徳は何歳になったのだ、お念仏を申しなさい」と、お正月早々、なんときびしいことを言われるお方であろうとの印象を受けます。しかし、大切なことであればこそお正月早々、引き締まった年頭の挨拶の時におっしゃったのでした。
 
新年を迎えると、私たちは「おめでとう、おめでとう」と祝辞を述べて浮かれていますが、上人は、何が本当にめでたく、歳を重ねるということはどういうことかを問われているのでした。つまり、新年を迎え歳を重ねるということは、いよいよ「生の意味、死の意味」をしっかり考えなければならない時期であることを指摘されているのです。
 
 蓮如上人と交流があったと伝えられている、一休禅師は、「元旦は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と歌われました。誰もが歳を重ね、老いを迎えていく中で、なるべく見ないように、目をそらしてきた自分の死という問題に、しっかりと目を開くことを一休禅師も指摘されました。
 
また、蓮如上人の「いくつになるぞ」とお言葉は、新年を迎え、今年もこのままの状態で続きたいと願っている私たちに、「いつまでも同じではない。だからこそ今を大切にしなければならないぞ」という問いかけでもありましょう。
 
そもそも、すべてが今のまま持続していくという考え事態が誤りであり、常に変わり続けているのが、私と私をとりまく世界です。肉親との別れ、仕事上での挫折、自分が突然病気になってしまうなど、大きな変化が起きるということは常に心得ておく必要があるのです。  そしてどのような人生の問題にぶつかっても、如来様のお救いの中にあることを思い、お念仏申す身となってくださいと、蓮如上人がよびかけてくださったのです。
 
新年早々、嫌な事が書いてある法話だと思われるかもしれませんが、今を大事にすることは、今年を大事にすることであり、そのまま一年、生涯を大事にしていくことでもあるのです。この蓮如上人のきびしい問いかけを私自身のこととして受け止めながら、お正月を過ごしたいと思っています。
 
合 掌

ご法名は生前にいただくもの

まず最初に、浄土真宗では戒名と呼ばずに法名と言います。そもそも戒名とは、出家をして、決められた戒律を守り通すことを誓う者の名前を言います。
   
しかし、浄土真宗の教えとは、とうてい戒律を守り通すことなど、出来るはずもない自分を自覚していく教えであり、戒律を守る生活を強いる宗派でもありませんので、戒名という言い方は私たちにはふさわしくありません。
 
在家の生活を続けながらも、阿弥陀如来様の救いをただただ聞かせていただく宗派ですから、法に帰依する者の名前として、お釈迦様の「釋」の字を一字いただいて法名と言います。
 
ご法名は亡くなる前に帰敬式(おかみそり)を受けて、ご門主様よりいただくのが本来の姿なのですが、生前にそのようなご縁のなかった方には、葬儀に際して、住職がご門主に代わって、ご法名をお付けいたしております。
 
 また、葬儀の時などに、「やはり法名は長い方が立派で、短いと成仏できないのでしょうか。」というご質問をよく耳にします。結論から言うと、戒名や法名の字数と故人の成仏はまったく関係ありません。むしろそのような迷信に振り回されている私たちの姿勢にこそ問題があるのです。
 
それこそ、その迷信に潜む差別性に気付いていかなければなりません。阿弥陀如来様の平等施一切(すべての者に等しく功徳を与えたい)の心をいただくのが、浄土真宗のご門徒の本当の姿なのですから。
 
私たちにとって法名をいただくということは、生前は仏教徒、浄土真宗の門徒として、阿弥陀如来様の教えを慶び、亡くなってからは、家族が故人を仏様と受け止めてゆくご縁となるのです。

汗掻きの父に似たりし吾子の汗   釋法蓮(法子)

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先日、新聞屋さんに頂いたタダ券で、健康ランドへ行ってきました。そこには温泉の他に、今流行りの岩盤浴があり、私は初の挑戦を試みることにしました。岩盤浴とは、温かい岩盤の上に寝そべり、汗や老廃物などを体から排出するという健康法です。私は電気絨毯の上で、うたた寝するのが大好きで、その感覚と似たものと思っていました。ところが、予想とはまったく違うものでした。その健康ランドの岩盤浴は、ドーム型の覆いの中に入るもので、従業員のお姉さん曰く、「大変効果が高い」そうなのですが、入ったとたんに「暑い・・・。」と、言葉がでてしまうほど。「そうですか?では一番低くしますね」と温度を下げてもらったのですが、それでも私には暑すぎるほどでした。隣では、私と同じ年頃の女性が、気持ちよさそうに目をつむり、微動だにしていません。私にはとても苦しく、例えるなら、暑い部屋で厚着をして、こたつの温度を最強にして首だけ出して入っている感じです。結局三十分コースを二十分でギブアップし、結構我慢したつもりが、ほとんど汗を掻く事無く終わってしまいました。

 館内の食堂でおち合った主人と娘は、爽やかな汗を掻きながら、二人でチョコレートパフェを食べていました。帰りの車の中では、「暑いね」と冷房をかけています。私は寒かったのですが、二対一なので、仕方なく上着をはおり我慢をしました。リラックスをしに行ったはずの温泉が、我慢ばかりになってしまいました。あげくの果てには、私だけ湯冷めをして風邪気味に。なんだか腑に落ちない一日でした。

 

悪人こそが救われる教え

 

善人ぜんにんなほもつて往生おうじょうをとぐいはんや悪人あくにんをや

 

今月いただきましたのは、『歎異抄』という書物の一文です。有名な文言ですので、一度は耳にされた方も多いのではないでしょうか。「善人ですら往生をとげるのです。まして悪人がとげられないことがありましょうか。」という意味です。

 
   親鸞聖人のお言葉として残されているものですが、一見、悪を犯す者が救われていく様にも思える文言です。ここで言う善人とはいったいどんな人のことを言い、また悪人とはどのような人を指すのでしょうか。
 
ふつう善人とは、頭がよくまじめで、自他に安らかな幸せをもたらすような行為の出来る人をいい、悪人とはそれとは反対に、罪深い事ばかりを行い、自他ともに不幸におとしめていくような行為をする人を言います。ですが、この解釈では、聖人がこのお言葉に込められた深い意味を正しく理解することはできません。
 
親鸞聖人はご自身のことを悪人であるとおっしゃっています。しかし、私をはじめ、聖人を悪人であると思っている人はおられないでしょう。聖人が使われた悪人というのは、自分自身を嘘いつわりなく、素直に省みた時に、自らの心の中にある愚かで恐ろしい人間の本当の姿を示されているのです。
 
そして聖人が示された善人とは、「自力作善(じりきさぜん)の人」です。自力作善とは、自力で修めた善によって往生できる人のことです。しかしこれは並大抵のことではありません。
 
私たちは、せいぜい自分は悪いことなどしていないから、善人であると思いこんでいるだけなのです。自らを善人と思い込んだ「善人」ほど、恐ろしいものはありません。
 
自分の正しさを疑うこともなく、その自己中心的な正しさをもって、他を傷つけ、自分自身をも苦しめているのです。つまり、苦しみや悩みが消えない人間は、とても善人とは言えないのです。如来様の救いとはその苦しみや悩みの止まない私たちに向けられた救いなのです。
 
さて、私は幼い頃から、風邪をひけばすぐに高熱を出す体質で、体温計が四十度を超えることもざらでした。ですが、私にとって風邪をひく事は、どちらかというと楽しみの一つでもありました。というのも、普段は厳しい母も、風邪をひいた時には本当に優しく、プリンやジュースを好きなだけもらえるのも病気の時だけの特権だからです。
 
病気の我が子を看病する母は、何か見返りを求めて行うのではありません。子を愛する母にとって我が子が病んでいるという、ただそれだけで、身も心も捧げて看病せずにはおれないのです。
 
ちょうどそれと同じように、阿弥陀如来様の救いは、捨てきれない煩悩に悩まされ苦しむ私たちであるからこそ、救わずにはおれないという慈悲のお心なのです。そのお心を受ける私たちは、ただただわが身の愚かさを自覚して、その救いの深きことを感謝するほかにはないのです。
 
悪人が往生をとぐいわれは、自らの悪を自覚した者こそが、如来様の救いにお任せすること以外に、私が救われていく道が無いことに気付くことが出来るからなのです。
 
                  合 掌
 

「死んで終わり」ではない世界

 

如来にょらいじょうしょうじゅ  正覚しょうがくのはなより化生けしょうして

衆生しゅじょうがんぎょうことごとく  すみやかにとくまんぞく
  

今月いただきましたご和讃は天親讃の中の一首です。また、このご和讃はお葬儀の時にも詠まれます。
 
   浄土のきよらかな蓮華のもとにおられる方々は、みな阿弥陀如来様の花(救い)から生まれられたのです。それは私たちが浄土に生まれたいという願いを満たされた姿であります。という意味です。
 
「如来浄華の聖衆」とは「浄土に生まれた方々」という意味の言葉です。そして「正覚の華」とは、「あなたが命終わる時には、私が必ず仏として生まれさせましょう」という仏様のお心を蓮華のように花開いた心、正覚の華と喩えられたのでしょう。
 
また、仏様のお心を蓮華に喩えられることは、私たちの煩悩の泥濁に染まらない悟りを持ちながらも、その根は私たちの汚れた心の中にしっかりと根付いておられることを意味しています。
 
 つまり、仏様の救いは、まさに私たちに向けられたものであり、その救いによって誰一人としてもれることなく、浄土へ生まれていくことができるのであると、示されているのです。
 
さて、私が小さい頃は、いわゆる“おばあちゃん子”でした。祖母が一人で出かけると、泣きながら裸足のまま追いかけて行くこともあったそうです。たくさんの事を教えてくれた、とてもやさしい祖母でした。
 
そんな祖母が、私がまだ小学生の時でしたが、こんな事を話してくれました。「誰でもいつかは死ななきゃならん。順番通りに死ねるかどうかも分からないけど、あなたより先に死にたいなぁ。もしそうなった時には、悲しむことはないんだよ。安心してていいんだよ」と。小学生の私には、いったい祖母が何を言おうとしていたのかは、わかりませんでした。
 
十年前、私が二十三歳の時、祖母は亡くなりました。お通夜の日、その祖母の言葉を思い出しました。ですが、その時は、ただただ悲しくて寂しくて、一晩中祖母の棺の前で泣いていました。
 
今思うと、祖母が言いたかったのは、「先に私が死ぬことになっても、いのちが無くなるのではありません。阿弥陀様の救いによって、お浄土に仏として生まれるのですよ。先に仏として生まれて、あなたをいつでも見守っています。いつかは必ずお浄土であえるのだから、悲しむ必要はないのですよ」と言いたかったのでしょう。
 
 亡くなった祖母が一番喜んでくれるのは、私が悲しんでいる姿ではなく、命終わる時には仏として生まれ、必ずまた会うことが出来るのだと、安心の中にこの人生を精一杯生き抜いていく私の姿だと思います。
 
如来浄華の聖衆とは阿弥陀如来様の「必ず救うぞ」というお慈悲の心で、煩悩をもつ私たちが、そのまま仏とならせていただく姿であります。仏法は「死んで終わり」ではない世界を気付かせていただき、悲しみや苦しみを乗り越えていける、心の糧となるのです。
 

                          合 掌 

亡き方が喜ぶお彼岸に

今月はお彼岸を迎えます。彼岸とは彼(かの)の岸と書き、お浄土のことを現します。彼岸に対して、私たちの住んでいるこの世界を此(この)岸、此岸(しがん)といいます。毎年迎えるお彼岸は、私たちが、お浄土へ生まれる道をあらためて聞かせていただくために営まれる行事です。決して先祖供養のための行事ではありません。
 
しかし、ご先祖や、先にお亡くなりになった方の為の行事といっても間違いではありません。実際に彼岸法要には、大切な人を亡くされ、まだまだ悲しみの癒えない方もおられます。
 
亡き方の為を想い、ご先祖さまの事を想いながら、何とか亡き方が喜ぶことをしてあげたいという気持ちの中から、お彼岸のお参りをされている方がほとんどでしょう。では亡き方が本当に喜ばれる事とはいったいどんなことなのでしょうか。
 
昨年の十一月に東京のお寺の法話会にお話に行った時です。いつも法話会が終った後は、庫裏で住職さんとお話をしながら、お茶をいただくのですが、その時は、法話会に来られていた、あるご婦人が、お茶の用意をしてくださいました。そして、お茶を運んできてくださった後、私にそっと小さな手紙をくださいました。そこには、こんな句が書かれていました。
 
失いてようやく知りぬ 亡夫(つま)の居た 普通の日々の普通でなきこと
 
後で住職さんに尋ねると、その方は五年前に旦那さんを亡くされ、そのお寺の住職さんを訪ねて来られたそうです。そして、「生前は一緒にいるのが当たり前で、普通の事と想っていたけれども、夫を失ってはじめて、一緒に居てくれたことが、どれほど有難いことだったか、気が付きました。生前、夫の喜ぶことをしてあげられなかった私ですが、今何をしてあげれば夫は喜んでくれるのでしょうか」とお聞きになったそうです。
 
ご住職は、「亡き人は仏様になられたのだから、亡き人の願いとは、仏様の願いと同じ。だから、仏様の願いとはどうゆうものなのかを聞き、その願いに答える生き方をしていくのが、亡き方が一番お喜びになることです」とお答えになったそうです。
 
それからそのご婦人はお寺に足を運ぶようになり、法話会やお寺の行事に積極的に参加されるようになったそうです。そして三年前からそのお寺の総代(門信徒の代表)さんをされています。ご主人の死を通して、本当に仏法を喜び、一生懸命お寺の行事や法要に参加されておられる姿を見て、ご住職さんが、総代さんをお願いしたそうです。
 
この彼岸という行事は、私達が仏になられた方の願いに会わせていただくためのものです。亡き方の願いとは、仏様の願いと同じです。仏様の願いとは、慈悲ともいいますが、私の人生に安心と心強さを与えてくださる導きをいいます。
 
いつでも亡き方は仏となって、嬉しい時も悲しい時も、私たちと一緒に喜び、悲しんでくださっているのです。先立った大切な方をこの私を導いてくださる存在として手を合わせていくことはとても尊いことなのです。
 
ですが、時に不幸が重なると、ご先祖が迷っているせいではと心配される方もおられます。しかし、ご先祖様が迷っていると考える前に、まず自分自身が仏様のみ教えを聞かせていただくことが大切なのです。
 
確かな心のよりどころを持たないまま、自分の命の帰る場所を知らずに生きているならば、迷っているのは亡くなった方ではなく、私自身なのでしょう。仏法を聴くことで、亡き方を心配するより先に、私のほうが案ぜられ、見守られていることに気付くことができるのです。また、亡き方は、私たちの帰る“命のふるさと”に気づいて欲しいとも願われています。
 
皆さんも旅行をされたことがあるでしょう。その旅行が楽しい旅になる一番の理由は、帰る我が家があるからです。人生をいう旅をしていく上で、自分の命の帰る場所を知らなければ、行く当てもわからず、帰る場所も知らず、ただたださまよいの人生になってしまいます。
 
亡き方はその“命のふるさと”で仏となって、「あなたも浄土へ生まれていくのですよ、必ずまた会うことができるのだから、精一杯生きてください。いつでも仏となってそばにいますよ。」と私に願いをかけてくださっているのです。
 
亡き方が本当に喜ばれることは、亡き方が残していかれた仏縁を大切にし、私の帰る“命のふるさと”が用意されていること、仏となっていつでもそばにいてくださることを心の糧として、心強さと安心の中に、この人生を力強く歩んでいく姿なのです。
 
            合 掌
 
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