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この頃思うこと

乳児殺害事件に思う(2007/10)

 先月4日に、東京都日野市で起きた、乳児殺害事件の犯人が逮捕されました。
生後3ヶ月の乳児を殺害した犯人は、実の祖母であったという、あまりにも残酷な事件でした。
殺害された乳児は、生まれつき脳に障害があり、犯人の祖母は、
「孫が病気で、将来を不安に思った」と供述していたそうです。
 
孫の将来を思い、つらい思いをさせたくないという気持ちからの犯行であるならば、
もしかするとこの事件は、祖母が誰よりも孫を愛していたがために起きた、事件なのかもしれません。
 
しかし、たとえそうであっても、この祖母は、実の孫を殺害した
という苦しみを、一生背負って生きていくことになったのです。
 
人間の愚かな考えは、それが愛する者のためを思ってのことであっても、
他の者を傷つけ、自らを苦しみのどん底へ突き落とす原因になることもあるのです。
 
私たち人間が、生きていく上で頼りとしている、自分の考え(知恵)には、
必ず毒があると仏法には説かれています。良かれと思ってしていることの中に、恐ろしい過ちが隠れているのです。
 
自らの知恵だけに頼るのではなく、法の智慧をよりどころとして
生きていくことが、本当の幸せを見つけることができる道なのです。

遷仏に思う(2007/11)

 先月三十日に、島根県にある実家、立善寺の報恩講に帰省してきました。
報恩講にはたくさんの方々がご参拝くださり、盛大な法要が勤まりました。
 
さて、この度の帰省には、実家の報恩講ということもあったのですが、それとは別に、
どうしても一度訪れてみたい所がありました。それは、立徳寺へお迎えしたご本尊が安置されていた、
島根県川本町の心光寺というお寺です。
 
 心光寺は、大森銀山代官所のお役人が開基であるといわれ、二百五十年の歴史ある寺院でした。
しかし、平成十三年に、人口の過疎化に伴い、門徒戸数も減り、
寺院の運営が困難となり、廃寺となってしまったお寺です。
 
現在は、のどかな田園風景の中に寺院跡がありましたが、山門であったと思われる
小さな石階段があるだけで、建物などは何も残っていませんでした。
 
二百五十年もの間、たくさんのご門徒の方々が心光寺に集まり、仏様の教えを慶んでおられたのかと思うと、
ご住職様やご門徒の皆様の残念な思いは計り知れません。
 
島根県で生まれ育った私が、故郷からご本尊をお迎えするというご縁は、
「今度は神奈川の地で、み法を伝え弘めなさい」という、阿弥陀如来様からの勅命のように思えてなりません。

クリスマスに思う(2008/1)

子供達にとって昨年最後の大イベントといえば、なんと言ってもクリスマス。
みんな気に入ったプレゼントは貰えたのでしょうか。
 
さて、皆さんもご存じの通り、クリスマスはキリスト教の行事です。本来、
仏教徒には関係のない行事なのですが、日本では、あまり信仰とは関係なく、国民的行事として行われます
 
 「お寺ではクリスマスはしないんですよね」っと、聞かれることがありますが、我が家では、
昨年のクリスマスには、家族でケーキを食べて、娘にはサンタさんがもってきてくれたと、プレゼントを渡しました。
 
お寺に生まれた私の娘には、クリスマスプレゼントがないというのは、ちょっと可哀想だったからです。
私も幼い時は、両親がクリスマスプレゼントを用意していてくれました。
 
 そんなクリスマスの日、娘がおばあちゃんから、グラスのコースターを何枚かもらいました。
そのコースターをテーブルに並べながら、「これはお父さんの分、お母さんの分、
私の分、それから阿弥陀様の分。」とつぶやいていました。
 
お寺でクリスマスなんて、仏様の教えには合いませんが、娘にとっては、仏様と一緒にすごした、クリスマスでした。

ご法事に思う(2008/3)

先日、葬儀を勤めさせていただいたご家族から、法事の依頼があり、
自宅で奥様と息子さんと百ヶ日法要をお勤めしました。ご法事の後、
お茶をご馳走になりながら、亡くなられたご主人様の事を聞かせていただきました。
 
ご生前は何事にも一生懸命取り組んでおられ、その人柄は、いつも他の人の事を
想っておられる方だったそうです。実際に、何年も会っていない近所に住んでいた青年が、
幼い時に一緒に遊んでもらい、いつも良くしていただいたと、お通夜に駆けつけてくださるほどだったそうです。
 
話の途中で、「もっと色々してあげればよかった、なんでもしてもらってばかりだった」と、
涙ながらに話しておられる奥様に、「大丈夫だよ、仏様になっていつでも傍にいてくれてるんだよ。」と、
息子さんがやさしく声をかけておられました。
 
「そうだね。そうだね。」と涙を拭きながらうなずいておられたお二人の姿は、ご法事という、
亡き方が残してくださった大切な仏縁の中で、まさに仏様の教えに出遇われていかれた姿に思いました。
 
きっとこのご家族は、大切な方を失った深い悲しみの中にも、仏になられた方の願いに包まれて、
大きな心強さをもって、歩んでいかれることでしょう。そして、その心強さをいただくことこそが、
ご法事本当の意味なのだと、改めて感じさせていただきました。

幽霊に思う(2008/5)

 少し季節は早いですが、幽霊について考えてみます。時代劇などで登場する幽霊は、
柳の木の下で、青白い顔をして、足が無い。両手をぶらりと前にさげながら、
「うらめしや~」と出てくるものと相場が決まっています。
 
足が無いのは、一説には江戸時代の画家が足を無くして描いたのが始まりとも言われています。
また、当時のお坊さんが、さまよっている者の姿として、足の無い幽霊の姿を作り上げたという説もあります。
 
この世に未練があり、あの世にも行けず、自分は何処へ行けばいいのか、
ぶらりと垂らした両手で手探りをしている。行くあてが分からず、地に足が着いていない姿を、
足のない幽霊として表したそうです。しかし、よくよく考えてみますと、私達も、自分の帰る命の故郷を
知らずに、この人生を送っているならば、幽霊の姿とあまり変わらない生き方をしているのかもしれません。
 
しかもこの世には、地位や名誉に心奪われている幽霊、お金のことばかり考えている幽霊、
いつでも自分が一番正しく、他の者が間違っていると思い込んでいる幽霊など、思うようにならないことを、
苦しみ悲しみ続けて、いつも「うらめしい。うらめしい」と言っている幽霊の声が満ち溢れているようです。
 
もしかすると、一番恐ろしい幽霊は私達自身なのかもしれませんね。
 
まさに幽霊は、私の迷いの姿の投影です。私の人生が、幽霊のまま終わることのないように、
私の命の帰るところ、そして本当に大切なものは何なのか、よくよく仏法に聴かせていただきたいものです。

"ゴッキー"に思う(2008/6)

 ゴッキーとは、我が家でのゴキブリの愛称です。誰でもゴキブリは苦手だと思いますが、
私は特に苦手で、恐怖でもあります。見つかった時には、悲鳴をあげ、ふるえがきます。
 
そのゴキブリの成虫を先月早くも我が家のキッチンで発見してしまいました。必ずいるだろうとは思いつつも、
姿が見えなかったので、なかなか現実を見据えなかった私。でもそこで私は変わりました。
 
駆除のための薬品や仕掛けを置き、毎晩しっかりと隅々まで掃除をし、ゴキブリ対策を欠かさなくなりました。
私の、きれい好きな奥様への道は、ゴキブリの出現がご縁となりました。人生は何がご縁となるかわかりません。
嫌なことでも、それが私を変えてくださるご縁となるかもしれません。
 
そんなゴキブリへの敬愛を込めて、私は“ゴッキー”と呼んでいます。
でも、できればもう二度とゴッキーには会いたくないので、
どんなに眠くても毎晩の掃除に必死で取り組む今日この頃です。

ツバメの巣に思う(2008/8)

つい先日まで、我が家での会話は、ツバメのことばかりでした。と言うのも、
五月の末頃からお寺の軒先にツバメが巣を作り出し、子ツバメが無事巣立ってくれるよう、
毎日家族みんなで心配していたからです。
 
さて、俗に、ツバメが巣を作ると、その家は繁盛すると言われています。
全く根拠のない迷信と思っていましたが、そう言われるようになったのにも、理由があるようです。
 
ツバメは害虫を食べてくれる益鳥で、古くから人間に愛されてきました。そのためか、
ツバメはあまり人間を怖がらないそうです。ですから、外敵から子ツバメを守るため、
高い建物のある場所で、人間の出入りの激しい所に巣を作るそうです。
 
つまり、人通りの少ない場所には巣を作らず、たくさんの人が訪れる、
店の軒先などに巣を作ることから、そういわれるようになったのだそうです。
 
 立徳寺は本堂ができてから、一年半になりました。法話会などにも少しずつではありますが、
ご参加くださる方が増えてきました。今年来たツバメは、「これからもっとたくさんの方々が、
仏様の教えの下に集うお寺を作りなさい」と、如来様が私を励ましてくださっているように思えた、今日この頃です。

新年に思う(2009/1)

お正月には元旦からたくさんの人々が、神社などへ初詣に出かけます。
三ヶ日を過ぎると、テレビでは全国の初詣番付の発表がニュースで流れます。
 
その映像を見ていると、「家内安全」、「合格祈願」などのお札を
多くの人々がこぞって買っていきます。一般的には当たり前のことと思われがちですが、
浄土真宗のみ教えからみると、その内容をあらためて考えねばなりません。
 
これらの祈願の根本にあるのは、自己中心的な欲望にほかならないからです。例えば、家内安全というのも、
家族の健康を願うことは、悪い願いとは言いませんが自分の家族や知り合いの健康は思ってみても、
隣の家の事なんて知ったこっちゃない。まして、嫌いな人や自分の事を悪く言う人の健康なんて、
考えてみたことも無いというのが本当のところでしょう。
 
また、合格祈願というのも、入学試験に合格したいという思いからの
願いではありますが、その願いも裏を返せば、不合格の人の悲しみを踏み台にした幸福、
他人の不幸が前提となった願いとなってしまうのです。
 
自分に都合のいい欲望だけを祈願によって神仏に満たしてもらいたい。
これが私たちの願いの正体なのです。我々浄土真宗の教えを聞かせていただく者は、
何を真実の心の拠り所としていくべきか、よくよく考えてかなければなりませんね。

草むしりに思う(2009/9)

 毎月第二日曜日の法話会の日が、ひと月の中で一番綺麗な境内になるように、
草むしりをいたします。以前、一日で片付けてしまおうとして、
腰痛になった苦い経験がありますので、今では大体三、四日かけて行います。
 
ですが、やっと綺麗になったと思った境内も、一週間も経てば、あっという間に雑草が覆ってきます。
容赦なく生えてくる雑草に、正直だんだん嫌になってきます。
さて、無量寿経には、人間の愚かな心を「煩悩の草木」と説かれています。
止むことなく生え続けてくる煩悩を、心の中の雑草と表されたのでしょう。
 
私達はご法座などで、仏法を聴かせていただいた時、自らの愚かさに心底気付かされることもあれば、
時には感動するほどの喜びを感じさせていただくこともあります。
 
しかし、日常の慌ただしさの中に戻れば、仏法などどこ吹く風と、怒りや欲、
そして愚痴にまみれた生活を送っています。綺麗にした庭も、放っておけば雑草に覆われるのと同じです。
 
だからこそ、自らの正しい生き方を、常に仏法に問いながら生きていかなければなりません。
仏法はご法座の時にだけ聴かせていただくものではありません。
 
日々の生活の中にこそ必要であり、仏法によってこそ、心の中に生えてくる雑草に気付き、
刈ることもできるのです。それこそが本当のお念仏の人生なのです。
 
そろそろ今月の草むしりの時期になります。私の心の中の雑草に比べれば、境内の雑草は、
まだまだゆっくり生えてきてくれているのだと、自分に言い聞かせる今日この頃です。
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