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この頃思うこと

伊勢原市での放火事件に思う(2006/12)

私の住んでいる伊勢原市では夏ごろから、放火事件が相次ぎ、回覧板などで、何度も注意を呼びかけられていました。先日、やっと犯人が捕まり、なんと犯人の三人は全員が未成年という驚くべき事件だったのです。動機は「面白半分でやった。火が燃えているのを見ると気分がスッとした」ということでした。

 特に誰かを傷つけようという悪意はなかったものかもしれませんが、それがどれほど罪深いことかをわからずに犯した罪は、とても恐ろしいものです。悪気のある罪は言語道断ですが、悪気のない罪にも大きな問題があります。それは、その罪が悪いことであることに気づいていないことです。罪を罪と自覚できていないことが、何度でも同じ罪を繰り返してしまう原因なのだと思います。

 私たちは普段、自分の気づいていないところでたくさんの罪を犯しながら生きているのかもしれません。そして知らず知らずのうちに他の人を傷つけ、また自分を傷つけ、苦しみを作り続けているのでしょう。自分は絶対に間違っていない、正しいことをしていると思っているとき程、自分の犯している罪には、なかなか気づくことができないものです。

自分の正しさに自信を持っている時はよくよく他の人の立場にたって考え、自分が楽しくてしょうがない時こそ、他の人の気持ちになって考えてみようと思います。そして、少しでも自分の悪いところが見えたなら、それは自分にとって、とても有難いことであり、やさしい気持ちで生きてゆくための第一歩になるのかなと思います。

元日本ハム・新庄選手に思う(2007/1)

 昨年のプロ野球は日本ハムファイターズが日本一になりました。その立役者として活躍したのが、新庄剛志選手。その新庄選手は最近あるバラエティー番組の中で、「今シーズンは“笑顔”を忘れないことを心がけていた」と、話していました。

日本シリーズ第1戦では、負けていた最終回も笑顔でプレーし、ベンチでも「大丈夫、明日は勝てるよ」とチームメイトを励ましていたそうです。その甲斐あってか、その後、ドラゴンズに4連勝し、見事日本一に輝きました。

仏教では布施行の中に和願施(わげんせ)という施しがあります。布施といってもお金や物を施すのではなく、これは誰かに会った時に、にっこりと笑顔を施すという意味です。できれば物をあげたくないと思っておられる方でも、このお布施なら簡単にできますね。(笑)

 いつも笑顔でいれば、その顔を見た相手も笑顔になり、自分自身も明るい気持ちでいられます。そして辛い事があった時ほど、笑顔でいることが、その辛さを乗り越える一つの手立てになるのだと思います。

 それにしても、新庄選手のあの異常なまでの歯の白さには、何度見ても驚かされます・・・。

宝くじに思う(2007/2)

 我が家では宝くじを買いません。買わないというより、まず当たるはずがないからと、妻が買わせてくれません。堅実というか、夢が無いというか・・・。 日本では昨年一年間で、1千万円以上の当選金を受け取った高額当選者は、1171人もいるそうです。なんとも羨ましい話です。

しかし、羨ましいことばかりではないのも現実のようです。顔も知らないような遠い親戚から手紙や電話が殺到し、なんとかおこぼれにあずかろうという輩がまわりに群がってくるそうです。誰かが狙っているんじゃないかという恐怖の生活に耐え切れず、全額を寄付してしまった人もいたそうです。誰かに分けてあげれば、私も欲しいという人が現れ、かといって分けてあげなければ、お前は嫌な奴だと人間関係が壊れてしまう。なんだか考えるだけでぞっとします。

 たくさんのものを手に入れたいと思うのは人間の性。お金だけでなく、地位や名誉もそうでしょう。しかし、たくさんのものを手に入れるということは、それと同じほど、無くしたくないという恐怖や、無くした時の苦しみが一緒についてくることを忘れてはいけません。そして、手に入れたものを永遠に持ち続けることなどできないことも事実です。何事もちょうどいいのが一番ですね。

 それでも愚かな私は、宝くじが当たったら何に使おうかと、買いもしないで、当たった時の使い道を考える今日この頃です。

「ぞうさん」に思う(2007/3)

 最近、私のギターの伴奏で、三歳になる娘と一緒によく歌を歌います。そのなかでも、特に「象さん」の歌がお気に入りのようです。「象さん象さんお鼻が長いのね、そうよ、母さんも長いのよ。」娘が歌うと「ぞーさん」ではなく「どーさん、どーさん」になってしまいますが、なかなか愛嬌があります。

 さて、その象さんの歌ですが、昔新聞にこんな記事がありました。象さんの歌は、まどみちおさんという方がお作りになった歌で、歌詞はみなさんもよくご存じのことと思います。これは、母象と子象の仲むつまじい様子を表した歌ではなく、子象が他の動物たちに、お鼻が長いのねと、バカにされている場面なのです。

しかし、この子象は、回りの動物達に、自分の容姿をどんなにバカにされても、「そうよ、母さんも長いのよ」と、あたかも自慢のように、答えているという様子なのだそうです。この子象はどんなに他の動物にけなされても、象として生まれ、象として生きていることに喜びを感じているのです。そして、大好きな母象と一緒である事がうれしくてたまらないのでした。

 私達人間はどうでしょうか?人間として生まれたこの命を、喜びの中で生きているでしょうか?自ら命を絶つ様な悲しい事件もよく耳にします。もう一度、人間として生まれたことが、どんなにすばらしことか、どれほどの命のつながりの中で私は生きているのか、よくよく考えてみたいと思います。

誕生日に思う(2007/4)

先月の二十三日は、私の三十二歳の誕生日でした。妻に言われるまですっかり忘れていましたが、覚えていてくれる人がいるというのは、何歳になっても嬉しいことですね。

 さて、毎年この時期になると思い出すことがあります。今から十四年も前の事ですが、私は大学時代に宗教教育部というサークルに在籍いたしておりました。毎週日曜日になるとお寺に子ども集めて一緒に遊ぶ日曜学校活動を行うサークルです。

 ある時の日曜学校で、真理ちゃんという小学二年生の女の子から、こんな質問を投げかけられました。「お釈迦様のお誕生日は四月八日でしょ。親鸞さまのお誕生日は五月二十一日。じゃあ阿弥陀様の誕生日は?」。正直返答に困りました。ちょっと調べてくるからとその場をしのぎ、大学の先輩にどう答えればいいか相談をしました。

次の週の日曜日、先輩から教えていただいた言葉をそのまま真理ちゃんに答えました。「真理ちゃんのお誕生日はいつですか?阿弥陀如来さまのお誕生日は真理ちゃんが生まれたその日です。生まれたその日から、いつでも傍で心配して見ていてくれるのですよ。阿弥陀様は真理ちゃんのために生まれられたのですよ」。そう言うと、分かったような、分からないような顔をしながら、ちょっぴり恥ずかしそうに、私を見つめかえしてきた真理ちゃんの姿を、今でもよく覚えています。

 そんなことを思い出しながら、私自身も大きなお心に包まれて生きているという心強さを、あらためて感じる三十二歳の誕生日でした。

我が家に思う(2007/5)

伊勢原市に引っ越しきて一年がたちました。最近では、もうずいぶん前から住んでいるような気がして、一年前まで築地に住んでいたことが不思議に思えるほどです。

 さて、私の娘は3歳になり、いろいろな事を、だんだんと理解できるようになりました。どこかへ連れて行ってあげると、本当に嬉しそうな顔をして、後で感想を話してくれます。子供のよろこぶ顔見たさに、いろいろな所へ連れて行ってあげるのですが、やはり父親は疲れます。運転や荷物運びなど、いつでも私の仕事です。帰路の車の中では、疲れた妻と娘が、後部座席で同じ格好をして寝ています。微笑ましくもあり、憎々しくも思えてきます。

しかし、、どんなに疲れていても、我が家に帰ってくると一安心。家に帰って、娘の話しを聞きながら飲むビールは、また格別です。なんだか、我が家に帰ってきてからの楽しみのために、旅行に行っているような気分すらしてきます。

 旅行が楽しいものになる一番の要因は、帰る我が家がある事でしょう。帰る場所がなければ、それは旅ではなく、さまよいになってしまいます。人生も同じです。私たちは人生という旅のなかで、たくさんの苦しみや悲しみに出会っていかなければなりません。そして、その苦しみや悲しみを乗り越えて、辛くも、すばらしい人生にしていく為には、人生の旅を終えて、私の帰る場所を知ることがなにより大切です。私の帰るべき、命の故郷に気付いていなければ、本当の安心の中で送る人生にはならないでしょう。仏教は私の帰る場所を知らせくださる教えです。

いじめに思う(2007/6)

いじめ問題のことをテレビや新聞でよく目にします。自殺という最悪の結果になってしまった、子どもたちの報道もまれではありません。自殺に追い込まれた子供たちの心を思うと、どれ程苦しい思いをしたのだろうかと、残念でなりません。

ある方は、自殺に追い込まれた子供たちは、両親や友達にも心配をかけまいと、誰よりも優しい心の持ち主であったが故に、一人で苦しみを背負ってしまったのだと言われていました。

どうやっていじめをなくしていくかは、これからの大きな問題ですが、これだけは言えます。どんなに辛く、苦しくても、決して自ら命を絶つようなことだけはしないでください。それは、自分自身で自分をいじめていることでもあるのです。

自分の命を投げ出してしまうということは、これから出会うであろうたくさんの喜びや、本当の人の温かさを知ることが出来なくなってしまうことなのです。苦しくても、精一杯生き抜いていれば、必ず今の苦しみを笑って話せる時がくるはずです。そして、温かく抱きしめてくれる人に出会うことができるはずです。生きていくことは、苦しみや悲しみの連続ですが、生きているからこそ気付くことの出来る喜びがあるのです。

いじめの苦しみは本人にしかわかりえない苦しみです。しかし、人の苦しみを知っている人ほど、本当に優しく、温かい心を持てる人になるのだと思います。

改名に思う(2007/7)

テレビを見ていると、この人こんな名前だったかな?と思うほど、最近は改名をする芸能人の方がたくさんいます。お偉い先生に占ってもらい、改名をすれば売れるようになると、とても売れそうにも無い名前でテレビにでています。売れるどころか、離婚の危機に陥っている人もいましたね。売れることができれば、改名のおかげ。売れなければ、自分の努力が足りないという、占い師にとってはなんとも便利な占いです。
 
逆境の中で、藁をも掴みたいという気持ちはわかりますが、改名をすることで自分の思い通りになるなんて、随分横着で、ずうずうしい考えに思えてなりません。芸能人の芸名ならまだしも、本名ですら改名する方がいます。自分の都合の悪い事が起こった時に、自分自身を省みることもせず、怪しい占い師の言葉を信じて、せっかく両親が願いや愛情をこめてつけてくれた、大切な名前を改名してしまう。なんとも愚かな事としか言い様がありません。
 
お釈迦様は「他によってはならない、自らに依って生きよ」とおっしゃいました。他の人の言葉に依っていては、都合のいいときはそれでいいのですが、都合が悪くなると、また他の人の判断や言葉に、惑わされてしまうという事です。私たちは、なんの根拠もない占いに一喜一憂して、自ら迷いの種を生み出しているのでしょう。
 
そんな事をいいながらも、朝のニュースの星座や血液型占いで、ついつい自分の結果に目が行ってしまう、我ながら情けない今日この頃です。

赤ちゃんに思う(2007/8)

ここ数年の間に、私の友人達はぞくぞくと結婚し、子供が生まれ、かわいらしい赤ちゃんの写った葉書が、次々と送られてきます。その葉書を見るたびに、妻の出産に立会い、生まれたばかりの吾子の顔を初めて見た時の感動が、今でも鮮明によみがえってきます。

 さて、日本ではあまり言いませんが、アメリカでは、生まれてきた赤ちゃんへの第一声に“ウェルカム(ようこそ)”と声をかけてあげるそうです。この世に生を受けた赤ちゃんに、吾子として生まれてきてくれたことへの感謝と、健やかに育ってほしいという、親の願いが込められた言葉なのでしょう。子供は皆、親の願いの中で生きているのです。

 私たちには、自分の両親以上に私の命を尊び、片時も忘れてくださらない阿弥陀如来様という、もう一人の親様がいてくださいます。そして、私たち一人一人は、「ようこそ生まれてきてくれた、安心して生き抜いてくれよ、いつでも傍にいるのですよ」という、大きな願いの中に生きている、仏様の子どもなのです。

夏休みに思う(2007/9)

 

今年は九月一日、二日が土曜日曜日ということもあって、子供達にとっては、夏休みをちょっと得した気分ではなかったでしょうか。それでも、得した二日間を楽しく過ごした人ばかりではないしょう。最後の二日間を、たまった夏休みの宿題に追われ、親に手伝ってもらいながら、必死で終わらせた人も少なくはないでしょうね。

 私も小学生の頃、夏休み最後の日に、二週間分の日記を半べそをかきながら書いた、にがい思い出があります(笑)。どうしても嫌なことを後回しにして、お尻に火がついてから、慌てて行動に移るというのは人間の性ですね。

 あるテレビのドラマで「明日やろうは、馬鹿野郎だ」というセリフがありました。分かってはいるつもりでしたが、一瞬ドキッとしました。私達は普段、明日が来るのは当たり前と思って生活していますが、考えてみると明日私が元気に生きている絶対の保障なんて、何処にもありません。だからこそ「明日でいいや」ではなく、二度とやってこない今日を悔いのないように生きることが何より大切なのです。

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