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法話

宗教は本当の幸せへの導き

 先日、インターネットでこんな記事を読みました。何年か前に、中東でちょっとした事件があったそうです。車で通行中の日本の商社マンが、道路で警備をしていた兵士に職務質問をうけました。名前を聞かれ、免許証の提示を求められた後で、「あなたの宗教は何ですか?」と尋ねられました。商社マンは「えーっと・・・」と口ごもって答えられないでいると、即座に逮捕されたのです。中東は信仰する宗教によって、立場が大きく違いますから、自分の宗教を答えられないような人間は「こんな怪しい奴はいない!」ということになったのでしょうか。政府の機関の人が、あちこち走り回って日本の宗教事情を説明し、ようやく釈放されたそうです。日本の道路で、これと同じような検問をしたら、さぞかしゾロゾロと逮捕されることでしょうね。

 「うちの家の何宗だったかな」くらいならまだしも、「私は無宗教だ」とか「神も仏も、私には関係ない」と大声で公言している人もいます。現代の私たちは、物の豊かさと引き換えに、人間の視点でしか、ものを見られなくなっていることが原因かもしれません。自らの幸せを求めては、すべてのものを損得勘定ではかり、実際に見えないものや、直接自分に利益のあると思えないものには、わざわざ目を向けようとしません。「宗教がなくても生きていける」、「宗教は法事や葬式の時のもの」、といった、宗教の中にある、本当の幸せへの導きを見失いつつあります。自らの死の問題や、人間の根本的は苦悩に答えを与えようとする、仏様の存在を見失っていては、いかに幸せになりたいと考えてみても、あまり意味のないことのように思えます。

 本当の幸せとは、辛さや苦しみ、悲しさの正反対ではありません。かといって楽しさや嬉しさと同じものとも言えないと思います。言うなれば、失意のどん底にあって、なお、しみじみと味わえるほのかな生きる喜びといったようなものではないでしょうか。人間は本来、普段は気が付きにくい不安や虚しさを抱えています。自らの死や病、別れの悲しみなどに直面した時には、その不安があらわになり、無力感や恐怖が人間を襲います。その時、その苦悩を包み込んで、人間に生きる力を与えるのは人間以上のもののはたらきであるはずです。人間ではどうしようもできないところに差し伸べられている救いによって道が開けてくるのです。仏様の願いは「どうしてもしあわせにしたい」「なんとしても気づいてほしい」という、とても強い願いです。その願いのはたらきによって、胸が裂けるような悲しみや痛みに苦しむ人が、「なぜ自分だけ」と虚しく悲嘆にくれるのではなく、その苦しみを転じて生きる喜びや、幸せを見つけることが出来るのではないでしょうか。

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