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法話

人間の愛と仏様の慈悲

 皆さんは最近「愛してるよ」と言ったことや、言われたことがありますか。私も、とんと言うことも聞く事もなくなりましたが、これは日本人の性格によるものでもあるようです。日本人は世界の中でも、とてもシャイな人種です。アメリカでは八十、九十歳になるおじいちゃんおばあちゃんも「アイラブユー」と日常茶飯事のように言っているそうです。夫婦や家族、友達が仲良くいられるひけつは、相手を好きであることを声に出して伝える事が大切です。言われた方はもちろん嬉しいですが、言っている方も自己暗示にかかって、そんなに愛していなくても、言っているうちに愛おしくなってくるそうです。逆にそんなに不満はないけれども、相手のいないところで、悪口ばかり言っていると、だんだん憎らしくなってしまうそうです。ちょっと恥ずかしいですが、皆様も一度チャレンジしてみてはいかかがでしょうか(笑)。
 
 一言で愛と言っても、人間の愛にもいろいろあります。夫婦愛、親子愛、兄弟愛、友人愛もあるでしょう。人の世には愛がなければなりませんが、その愛が深ければ深いほど、結局は悲劇的になってしまうところが、人間の悲しいところであると、仏法では説かれています。お釈迦さまは愛するゆえの苦悩を愛別離苦(あいべつりく)とも怨憎会苦(おんぞうえく)とも名づけられました。
 
 愛別離苦とは愛するものと別れていかなければならない苦しみのことです。どんなに離れたくないと思っていても、ともにあるべき縁が無くなった時は、必ず別れていかなければなりません。恋人に振られることもあり、死に別れていかなければならないこともあります。人間の愛は決して永遠は続かない無常さ故に、愛別離苦という苦しみを伴うのです。
 
 はたまた、怨憎会苦というのは、どんなに愛していても、その愛が裏切られた時、愛が深ければ深いほど大きな憎しみに変わっていってしまう苦しみを指しています。本来、愛とは与えるものであって、貪る愛ではあってはなりません。憎しみや恨み、悲しみに変わってしまうような愛では、必ず苦しみへと向かってしまいます。ですが、一切見返りを求めない愛、決して憎しみに変わることの無い愛というのは、とても難しいものです。
 
 真実の愛とは相手を本当に大切なものと思う心から出てくる慈しみの心です。ですからそれは決して憎しみには変わるはずがないのですが、人間の愛とはどうしてもそこに我が入る愛でありますから、真実の愛とは言えなくなってしますのです。男女の愛一つ取ってみても、恋愛のこじれで起きた殺人事件というのもよく耳にします。誰よりも愛していたはずなのに、その人を手にかけてしまうのです。愛といいながら、結局人間の愛の中心には私がいるのです。
 
 他にも親子愛というのもあります。たしかに親が子を育てているときの献身的な愛情は、仏様の慈悲という言葉に一番近いかもしれません。しかし、その愛ですら、他人の子供までは及びませんし、それどころか、わが子可愛さのあまり、他人の子供をねたんだりすることさえあります。せめて親子や兄弟、夫婦だけでもいたわりあい、守りあって、愛と安らぎの中で過ごしたいものですが、現実にはそれすらも、憎しみ悲しみをもたらす原因になってしまうことが多いのです。まさに仏法に説かれている通り、誰かを愛してあげたい、愛したいと思っても、それがなかなかできない愚かなわが身を知らされるばかりなのです。
 
 人間の愛に対し如来様の慈悲とは、愚かな人間に差し伸べられた愛です。無条件に他を思い、他の苦しみ悲しみを我が心の痛みとして、その人の幸せを自らの願いとしてゆく心は、如来様の慈悲でなければできないのです。人間の愛には限界がありますが、変わることのない如来様の慈悲こそ、真実の愛といえるのです。如来様の真実の慈悲を知る時、人間の愛の限界や自分の無力さを感じながらも、希望と心強さをいただくことができるのです。そして、そんな人間も、命が終わるその時には、如来様と同じ、真実の慈悲のハタラキをする仏様とならせていただいて、その慈悲をもって他のものを愛し抜くことができるのです。
 
 昔の浄土真宗のご門徒の方は、お通夜にお赤飯をたきました。残されていく遺族、家族は心配であるけれども、今度は仏となって、本当の意味で家族を愛し、救うことが出来るのだから、こんな嬉しいことはないじゃないかと、亡き方の死を悲しみながらも、仏に生まれられたことを喜ばれたのです。仏様の慈悲とは、愛すらも自らの苦しみの種となってしまう愚かな私達だからこそ、見捨てることが出来ないと包みこんでくださり、真実の愛に目覚させ、導いてくださるお救いなのです。合 掌
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