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法話

災いが無くなるご利益

 さて、受験のシーズンがやってきました。このシーズンの風物詩ですが、何とか志望校に合格できますようにと、わらにもすがる想いでご利益を求め、受験生や子供の両親がこぞって、神社へ合格祈願にでかけます。浄土真宗の教えにもご利益はありますが、一般に言われているご利益とは、全く性質が違ったものです。
 
 例えば、この合格祈願を阿弥陀様にお願いした場合、願いをかなえてくださるでしょうか。結論から言うと、残念ながら、かなえてはくださいません。何故かと言うと、私たちの願いというのは、必ずといっていいほど、我執(がしゅう)という心が入ってくるからです。つまり、自分を中心に考えた心から生まれる願いであるからです。この合格祈願の中にも、自分が合格する為ならば、誰かが不合格になってもいいという心があるのです。それこそ、誰か他の人を落としてでも合格したいと願う心と同じだからです。他にも、家族や親戚が健康でありますようにと、ご利益を願う心など、一見すばらしい願いのように思えるものにも、やはり我執という自分中心のこころが入ってきます。自分に縁のある人や、自分にとって都合のいい人は健康でいて欲しい。しかし、隣の家族の健康なんて知ったこっちゃない。自分を悪く言う人の健康なんて考えてみたこともないという姿が見え隠れしますね。一切平等に救うと誓われた阿弥陀様が、そういう、我執の入った願いをかなえてくださるとは、とても思えません。
 
 親鸞聖人が尊敬された、善導大師という、中国のお坊さんが、阿弥陀如来様のご利益をこんな喩え話でお示しくださいました。「たとえば人ありて稲を求めん。まったく藁を望まざれども、稲いできぬれば、藁おのずから得るが如し。」
 
 藁(わら)とはこの世のご利益のことで、稲とは後世を願う心、つまり、阿弥陀如来様の救いにおまかせをする心を表します。稲を得るものは必ず藁を得るのと同じように、阿弥陀如来様の救いを信じる者は、おのずと、この世のご利益をいただけるという意味です。阿弥陀如来様のお救いとは、人間としての命終わる時には、必ず仏として生まれさせてくださるハタラキです。そしてご利益とは、そのハタラキにお任せし、真実の信心を得た人が自然と賜るもので、阿弥陀如来様に祈ってみても得られるものではありません。では、具体的に阿弥陀如来様のご利益とは、どんなものでしょうか。
 
 親鸞聖人は、御和讃の中に、息災延命(そくさいえんめい)という、災いが災いでなくなるご利益を、阿弥陀如来様の教えの中から、お示しくださいました。阿弥陀如来様の教えとは、私達が生きていく上で出会う、老いや病の苦しみ、別れの悲しみなど、全ての事柄に意味を与えてくださる教えです。
 
『癌告知の後で』という本を書かれた、鈴木章子(すずきあやこ)さんという方がおられました。この方は浄土真宗のお寺の奥さんですが、癌を患い、四十七歳という若さで、四人の子供と夫を残して、お亡くなりになられました。しかし、鈴木章子さんは、阿弥陀様の教えに照らされ導かれることで、癌と共に生きる人生が、これほどまでに深く素晴らしいものになるのかと驚くばかりであると、おっしゃいました。まず、癌を患い、明日をも知れない我が身の中で、これさえ手に入れば最高と思っていたものが、どれだけ中途半端なものであったかを知ったそうです。財産も肩書きも家族も、いざという時にはすべて置いていかなければならないものばかり。そこで大切なのは、心にどんな宝物を抱いているかであると思ったそうです。その気付きこそが、仏法にであう導きともなったのです。そして、思うようにならない人生だからこそ、当たり前と思っていたすべてのことが、どれほど幸せなことであったかを、気付くことが出来たのです。
 
 お亡くなりになる、二ヶ月ほど前、自宅で静養されている時のこと。章子さんの夫が「夜、知らないうちにお前が息をひきとっても困るから、同じ部屋で寝よう」と声をかけられました。すると、章子さんは、「あなたが同じ部屋で寝てくださっても、いざというとき一緒に死んでいただくこともできないし、代わって死んでいただくことも、死を延ばすこともできない。一人でいても二人でいても同じこと。それよりお父さん、子どものためにも体を休めてほしいから、二階と下と、別々に分かれて寝ましょう」とお答えになったそうです。章子さんが、その時に書かれた「おやすみなさい」という題の詩をご紹介します。
 
「お父さん、ありがとう。またあした会えるといいね」と手を振る。テレビを観ている顔をこちらに向けて「おかあさん、ありがとう。またあした会えるといいね」手を振ってくれる。今日一日の充分が胸いっぱいにあふれてくる。
 
「お父さん ありがとう」の一言の中には二十年余りの夫婦として共に歩むことが出来たことへの感謝の気持ちもあったでしょう。「またあした会えるといいね」と、切なる思いで願ってみても、間違いなく明日を迎えることが出来るという生命の保証はありません。今夜お迎えが来るのかも知れない。永遠の別れの思いをこめて「おやすみなさい」と、一階と二階に別れて寝たそうです。幸い朝が迎えることが出来た時、このご夫婦は、「お父さん、会えてよかったね」「お母さん、会えてよかったね」と心おどる思いで挨拶をかわされたそうです。 章子さんは「四十六年の人生の歩みの間、こんな挨拶を一度だってしたことがなかった。健康にまかせて、忙しい忙しいの毎日で、うわのそらの挨拶しかしてこなかった。癌をいただいたお陰で、一度一度の挨拶も、まるで恋人のように胸おどらせての挨拶ができるようになった」と、喜びの中で語っておられました。
 
 人生には喜びも悲しみも、愛も憎しみも成功も失敗も、健康も病気も、同じようにとりそろえてくれています。むしろ思うようになることばかりの人生では、幸せが当たり前となり、幸せを幸せといただくアンテナがなくなってしまいます。幸せの中にいながら幸せを感じる事が出来なくなってしまうのは、一番不幸なことかもしれません。思うようにならない人生、悲しみや苦しみによってこそ、聞く耳が開け、アンテナを立てさせていただくことが出来るのです。そして、そのことによって教えに出会い、悲しみや苦しみを積極的に〝ようこそ〟と受けて立っていけるのです。鈴木章子さんは「癌をいただいたお陰で、至る所からご説法が聞こえてくる。肺癌で寝ているこのベッドの上が、如来様のご説法の一等席であった」と涙されたそうです。
 
 苦しみや悲しみに出会ったからこそ、初めて気付くことの出来る大切なことがわかった。そして、これがあったからこそ、お浄土へ生まれてく道に出遇えたのだと、災いと思っていたこと全てを拝む心が生まれる時に、苦しみや悲しみに会ってよし、生きてよし、死んでよし、何が起きようとも阿弥陀様と一緒に生きて、共にお浄土へ生まれていくのだと思うことができるのです。それこそが、災いが災いでなくなる阿弥陀如様のご利益なのです。
 
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