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法話

損な人生、得な人生

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最近、気になる言葉に、「損な性格」「損な役割」などという言葉があります。「あんな損な役回りを引き受けてしまうなんて、まったく損な性格だよなぁ」という具合に、テレビのドラマの中などではよく聞きます。そんな会話の締めくくりは、「どうせたった一度の人生なのだから、自分の思い通りに生きなきゃ損だ」という言葉です。
 
 もしも、周りの人に気を使いストレスを溜めているような人間関係の中にあれば、「周りにばかりに流されずに自分の思うように生きたい」という事も必要かもしれません。しかし、「思い通りに生きなければ損だ」という言葉には、私は何か空しいものを感じてしまいます。「こんなふうに生きれば損だ」けれども「あんなふうに生きれば得だ」というのは、自分の人生を損得で勘定しているように思えてなりません。 確かに、人生において「損か得か」「自分に役に立つか立たないか」「楽か辛いか」という基準は必要です。それが生活の中での尺度かもしれません。ですが、それしか私の人生を生きていくための基準がないというのは、いかがなものでしょうか。
 
 また、そこには、自分の命は、自分だけのものとしてしか考えられない心が見え隠れします。人生の問題を損得に置き換えるのは自分の命を自分だけのものと考えている証拠なのではないでしょうか。 自分の命は、言うまでもなく、あらゆる命によって成り立っ
ています。毎日の食事を見てもそれは、一目瞭然です。私たちは他の命をいただかなければ生きてはいけません。だからこそ、食前食後には命を「いただきます」「ごちそうさまでした」と合掌するのでしょう。また、私の命だけではなく、どんな命でも互いに支えあっているものです。ですから、私の命はたくさんの命によって成り立っているといえます。にもかかわらず、私だけの命だと思いあがっていると「損だ得だ」ということになってしまうのです。
 
 命に損得はありません。あるとすれば「尊く生きたか」「無駄に生きたか」ではないでしょうか。その基準からみれば、自分の利益になることのみを選んで行い、いつも楽をして生きること考えて過ごして、得をした人生であったと思っても、自分の人生を無駄に生きたということもあり得ることです。つまり、どんなに得をする人生を生きようと歩んでみても、「自分だけがよければいい」「死んだら終わり」と思って生きているならば、寂しさと不安の中に生きる人生、無駄に生きた人生になってしまします。反対に、どのような辛い人生であっても、「尊く生きた」ということもあり得ます。損をしたことや、思い通りにならなかったことが、無駄な人生を生きたということではく、私の命は仏になるようにと願われた命であることに気づき、多くの命のつながりの中で、「自分だけが」という思いを超えた人生を歩む時、「尊く生きた」と言えるでしょう。どんな人生になろうとも、仏様と一緒に歩む人生には、いつも安心と心強さの中に生きていける人生になるのです。

 

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