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法話

お彼岸は亡き人からのよびかけ

 今月はお彼岸です。「暑さ寒さも彼岸まで」言われるように、季節の変わり目を実感する節目としても重要な意味のある行事です。「お彼岸は何をする日ですか?」とお聞きすると、「お墓参りをする日」と答えられる方が、一般的ではないでしょうか。ご先祖様や亡くなった方への追慕の想いでお墓参りされるようです。
 
 私が大学時代、京都ではご法事やお参りなどをすることを「よばれ」と言っていました。「今日は親戚の法事でよばれです」とか、「お寺でよばれです」といった具合です。最初にこの言葉を聞いた時には、法事では食事がでますので、御馳走をいただくとか、案内をいただいていることを「よばれ」と言っておられるのだろうと思っていました。ところが、大学の恩師から「よばれ」という言葉の中には、食事のことだけでなく、亡き人から呼ばれているという意味があることを教えていただきました。今の日常が永遠に続くかのように誤解して暮らしている私たちに、「やがてはいつか死んでいく身を、どのように受け止めて、今を生きていますか」と呼びかけられている、と言われました。
 
 そもそも仏教では、お彼岸にお浄土を想い、自分の命の還る場所をあらためて感じさせていただくものです。普段は日常生活のなかで、自分が死ぬことなんて考えたくもありませんし、自分の思い通りにならなければ不平不満を言い、思い通りになったとしても、また次々と不満が出てきて、あれこれと思い悩むことばかりです。そんな私を顧みる行事でもあります。
 
 それではお彼岸というのは仏教的になんであるかというと、彼岸の反対は「此岸」、この岸なのです。この岸に対して彼の岸なわけです。仏教的には彼岸と此岸ですが、一般的には此方と彼方。彼方と此方をどう区別したかというと、私どもの日常生活ではドロドロごたごたが続き、欲がお互いに張り合っている。毎日のようにそれが繰り返されていく。だから人生は苦しみであるとお釈迦様は悟ったというのです。これが此方です。
 
 苦しみは、歯が痛いとか喉が痛いというのも苦でありますが、仏教はもっと大きい立場から苦を解釈されています。簡単に言えば、思いどおりにならない苦しみです。みなさんの人生は思い通りに毎日なっていますか。違いますよね。一生を通しても思い通りにならないことだらけです。がっかりしたとか、もちろん病気も入ります。そんな思い通りにならないことばかりの私です。それを仏法に照らして見てみると、結局思い通りにならないと苦しみ悲しんでいる原因は、自分の欲の皮が張り過ぎているということや、「私が私が」といつも自分中心に考えて生きていることを知らされてくるのです。
 
 普段は、私の命のはかなさを思わず、自ら悩みや苦しみの種を生み続けている私です。だからこそ尚更、せめてお彼岸の季節だけでも私の苦悩に差し伸べられている阿弥陀様のお救いを聞かせていただく必要があるのです。
 
 如来様のお救いとは、私を不平不満のない良い人間にさせるというものではありません。「生きている間は、不平不満が止まない私達だからこそ、あなたの愚かさを私の心の痛みとして、悲しみ、慈しみ続けたい。命の終わりには必ずお浄土へ連れていく」という救いです。そのままの私がすでに救い中にあること聞かせていただく時、恥ずかしさの中にも心強さと生きる力がわいてくるのではないでしょうか。そして、命の還る場所あると知らされる時、大きな安心を持って人生を送ることが出来るのです。お彼岸は、ご先祖に何かをしてあげるためにあるのではありません。仏となられた方からのよびかけを聞かせていただく機会としていきたいものです。
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