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法話

正しいつもりの善人

 我が家では、息子をお風呂に入れるのは、基本的に私の役目です。先日、いつものように息子をお風呂に入れ、顔や頭を洗ってあげるのですが、息子の口の周りには、たくさんのチョコレートがついています。いったいどんな食べ方をすればこんなにつくのだろうと、不思議に思うくらい汚れています。「もうちょっと綺麗に食べられないの」と息子の口の周りを洗っている時、ふと、お風呂場の鏡にうつった自分の顔を見ると、私の口にもチョコレートがついていました。息子にばれると父親の面目丸つぶれです。そそくさと拭き取り、何事もなかったようにしていました。皆さんもこんな経験はありませんか。
 
 自分以外の人の汚れはよく見えても、自分自身の汚れはなかなか気が付かないものです。そして「あなたの顔が汚れていますよ」と、おしえられた時には感謝できますが、「あなたの心が汚れていますよ」と言われると、はたして感謝できるでしょうか。
 
 鎌倉時代、無住禅師という方が書かれたといわれる『沙石集』の中に、こんなお話があります。ある時、四人の僧が一本のロウソクをまん中に置いて、無言の行を始めました。無言の行とは、その最中は、口から声を出してはならない、つまり話してはいけないという行です。やがて、一日が過ぎて夜になりました。夜風が吹き、戸がカタカタ揺れます。しかし、気を散らさずに黙っています。そのうち すきま風でロウソクの炎が揺らぎます。心も少し揺らぎます。ですが、口を開いてはなりません。ところが、強めの風が吹いたとたん、ロウソクが消えてしまったのです。「あっ、火が消えた!」思わず、一人の僧がしゃべってしまいました。すると、もう一人の僧が、「こら、今は しゃべっては いけないのだぞ」と注意しました。そして、別の僧が、「しゃべるなと言いながら、そう言うお前がしゃべっているではないか!」と、やはり、しゃべってしまいました。これで、三人とも無言の行は失格です。そこで、ずっと黙っていた最後の一人が、「結局、しゃべらなかったのは、私だけだ」とつぶやきました。つまり、全員失格です。
 
 こんなふうに、私たち人間は、他人のことはよくわかるが、自己自身のことは、なかなかわからないものです。でも、自分のことを一番よく知っているのは、自分だと思っています。自分のことは、「確か」で「正しく」て、その思いを離れられない。だから、その自分にとらわれて、周りの人を責めてしまう。善い事をしたら、その善い事にとらわれて、善い事をしていない人を見下したりします。自分の本当の姿は「正しいつもりの善人」なのです。
 
 阿弥陀如来様は、そんな思いや我執(とらわれ)に縛られている私に対して、「自分が正しいという思いやとらわれこそ、一番危ないのですよ。ほんとうの自分の汚れに気付いてくださいよ」とはたらきかけて下さっているのです。自分では気付けない自分の汚れは、誰かに指摘されても、なかなか素直にうなずくことも出来ないかもしれません。仏法という鏡に自分をうつして見ることで、初めて知らされてくるのです。そして、そんな愚かな私だからこそ、心配でならないというお救いが如来さまのお慈悲なのです。
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