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法話

納骨の決心がつきました

 先日、あるご門徒さまのお納骨の法要を勤めました。お葬式から八年。納骨の決心がなかなかつかず、ずっと自宅のお仏壇に置いてありました。きっと、お骨を収めると、もう身内の縁が切れてしまうと思われたのでしょう。納骨を決心されるまで年数が経ちましたが、私はこの歳月というのがとても大切だと思っています。お骨というのも、簡単に言えば「ほね」です。火葬されて残った「ほね」です。極端に言えば物質です。しかし、それが身内のものであるから、「ほね」であっても大切に扱うのです。
 
 昔、「人間死んだらゴミになる」とおっしゃった方がいましたが、少なくとも身内の死を縁として、生死無常のことわりを知り、両手を合わす身にならせていただいたものをゴミのように扱えるはずがありません。そこで、一定の場所に納骨をして、遺徳を偲び、感謝をさせていたくのです。そしてお骨ですから、長い年月が経てば、土に還っていくのです。それでいいのです。たとえ土に還ったとしても、亡くなったものは「はたらき」として、わたしの中に生きているのです。
 
 ですが、愛していた人のお骨であればなおさら、こう考えることが出来るようになるには時間がかかります。ご門徒さんが納骨を決心なさったのは、亡くなったものはお骨ではなく、仏となってそばにいてくださるのだと、何度も重ねてきたご法事などで、仏法に触れ、歳月をかけて感じとられたからに違いありません。私は、歳月が心を育ててくれるということを忘れて、納骨することばかりを薦めて、かえってプレッシャーをかけてしまっていたのかもしれません。
 
 そもそも人間というのは、見たら見た物に、聞いたら聞いたものに、持ったら持ったものに心を縛られて生きています。お骨にしても、長年苦楽を共にしてきた身内のお骨を前にすれば、さまざまな想い出が蘇ってきます。それを火葬してお骨になったからといって、すぐに手放して納骨することなんてとても出来るはずがないと思うことも当然かもしれません。悲しみのどん底におられる方に、お骨が亡き人であるわけではないとお伝えしても、通じるはずがありません。歳月をかけて仏法を聞き、やがて心に響いてくるものです。その時に初めて、お骨にとらわれることなく、仏となられた方からのはたらきとして感じることが出来るのです。
 
 昔から「時が解決してくれる」といいますが、心の面では特にこの時間というのが大切だと思っています。大学の頃に読んだ仏教書を今読み返してみると、あの頃には気付けなかった素晴らしさや感動が分かってくるのも確かです。すると年をとるということも有難い事だなといただけてきます。もちろん、いたずらに歳月を重ねることがいいということではありません。迷いや苦しみの時間を経て、仏法を聞く縁の中で見えてくるものがあることを、しっかりと聞かせていただきたいと思います。
 
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