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法話

老・病・死は異常なこと?

 以前、お葬式でこんなことがありました。前の日のお通夜であった子どもたちが、お葬式では姿が見えませんでした。ご遺族にお尋ねすると、「子どもたちにはあまり死に顔を見せたくないので親戚に預かってもらっている」という返事が返ってきました。子どもたちを想っての事であったと思いますが、それでは家族の中で、本当に大切なことが伝わっていかないのではないでしょうか。
  
 以前、新聞に「首都圏では9割の人々が病気で亡くなるため、日常生活から死が切り離され、老・病・死は異常なものであるかのような考えが生まれている。このように、今の世の中が子どもたちに、老・病・死を忌み嫌わせるような世界を創り出している」という内容のことが書かれていました。亡くなられた方のお骨を拾い、色々な思い出を話すことは、大切な感情を育んでくれます。しかし、現代は死を異常な事として、目をそむけているようです。
 
 仏教では人生を生と死としてみます。生まれたからには死を避けることはできません。まさに生と死は表裏一体で分けて考える事は出来ません。死を異常なものとして遠ざける事は、自分自身のいのちを粗末にする生き方になってしまうのではないでしょうか。
現代の大人がこのままでは、子どもたちにもそんな生き方を強いることになってしまいます。
 
 本願寺8代宗主蓮如上人は、
 わかきときに仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。
 
と仰せになりました。諸行無常のまっただ中にいる今の今、私のいのちの意味を考え、そのいのちの生き方を知ることの大切さを教えてくださっています。それはまさに、身近な人の死を通していのちのありようを聞き、それを伝えていくことの大切さです。
 
 老・病・死は決して異常な事ではなく、ごく自然なことです。仏教では、無常の人生の中で生じる苦悩すら無駄にせず、その意味をみいだし、それを乗り越えていく道を説きます。しかし、それは現実の苦悩が消えてなくなるという事ではありません。仏の教えを聞かせていただくと言う事は、尽きる事のない苦悩を真正面から受け止め、その苦悩に差しのべられてある救いに安心をいただく事です。
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