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法話

何が災いで何が幸福

 先日、買い物に行ったお店の軒先に「除災招福」と書いてあるお札が貼ってあるのを見かけました。仏典の中ではあまり用いられた例はありませんが、字の通り「災いを除いて、幸福が訪れる」という意味でしょう。一見、とても素晴らしい文字の様に思えるのですが、ここでよく考えてみなければならないことがあります。それは「何が災いで何が幸福なのか」ということです。私たちは幸・不幸をどんな時にどんな風に感じているでしょうか。
 
 ある人の体験談です。宝くじを買ったら十万円が当たりました。思わぬお金が入ったので「今晩は僕が御馳走してあげる」と会社の同僚数人を誘いました。上機嫌で一杯やっていると、たまたま同じ会社の人が一人その店にやってきたので「君も来たのか、一緒に飲もう」と合流しました。すると「帰ろうか」とういう頃になって、後から合流した人が「今日はいいことがあったから、ここは僕が全部御馳走する」と言い出しました。一体どんないいことがあったのか、その理由をなかなか言わなかったのですが、しつこく聞かれお酒も入っていたので、彼はついに本当のことを言いました。「実は宝くじで一千万円が当たったんだ」。それを聞いて、さっきまで上機嫌だった人の酔いがいっぺんに醒めました。「いつ、どこで買った」と聞くと、同じ売り場で一日違いでした。それを聞いて思わず「くそっ、俺はなんて運が悪いんだ。損をした」とつぶやいたそうです。
 
 考えてみてください。その人は決して損をしたわけではありません。三百円で買った宝くじが十万円になったのですから。ところが、ほぼ同じ条件で一千万円当たった人を見ると損をした気分になるのです。これは、自分の幸・不幸を他人と比べて感じているからです。つまり、私たちの願う幸せとは、常に他人より幸せ、もっと言えば他人の不幸が前提になった幸せです。もしかするとそれが私たちの思う幸せの正体なのかもしれません。
 
 自分中心の幸せや、相対的な幸せは決して本当の幸せとは言えません。幸せと思って今まで頼りにしてきたものも、いつまで支えになるとは限りません。若さも健康も、地位や名誉、財産。家族や友人も、いつまでも付いて来てはくれません。いつか必ず失うものを頼りにしていては、結局は絶望だけが残ってしまいます。決して無くなることがなく、いつでもどこでも、いのちの底から支えてくれるものでなければ間に合わないのです。 
 
 親鸞聖人は、その頼りとするものは阿弥陀如来様のお救いであり、「畢竟依(ひっきょうえ)」究極のよりどころであるとお示しくださいました。如来様の願いと「除災招福」。似ているようで、根底には大きな違いがあることを考えていかなければなりません。   合掌
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