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法話

"読経"の意味

 先日、ある他宗の寺院の前を通りかかった時、境内に停めてある真新しい車にむかって、僧侶の方が読経していました。傍らには、その車の持ち主であろう人物が、合掌の姿勢のまま頭を下げて立っておられました。最初は、何をしているのかわかりませんでしたが、通り過ぎてから、あれは「お払い」をしていたんだなと気がつきました。
 
  私たち浄土真宗では「お払い」や「祈祷」を行いませんので、何か奇妙な場面を目撃したような気持ちになりました。そして、「お払いの必要があるような車なら買わなきゃいいのに」とも思いました。私が奇妙な場面と感じたのは、現代の粋を集めたといっても過言ではない、最新型の自動車にむかっての読経です。これがお墓やお仏壇にむかっての読経であれば、何とも思わなかったでしょう。しかし、よくよく考えてみますと、お墓やお仏壇にむかっての読経も、一つ間違えば奇妙なものになってしまいす。
 
 お経はお釈迦様のご説法を文字にしたものです。日本へは中国語に訳されたものが多く入ってまいりましたが、私
たち浄土真宗では、特に「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」と呼ばれる三つのお経を大切にしております。そし
て、これらのお経に説かれている阿弥陀如来様のお救いを聴き、その救いを慶びとさせていただくのが私たち浄土真
宗の読経であります。
 
 しかし、現実には私たちの中にも読経を何か呪文のように受け取り、お墓やお仏壇にむかって「禍がありませんよ
うに」とか先祖の鎮魂や慰霊のためのものと考えている人も少なくはありません。もう一度浄土真宗のお経の意味を
よく味わい、お仏壇やお墓の意味も併せて考えていかなければなりません。
 
 まず、お経に説かれているのは、私たちの苦しみや悲しみの根本は、自分の中にある煩悩が原因であることが説か
れてあります。普段の生活の中で、すべてが自分の思い通りならないことは、当たり前のことであるにも関わらず、
思い通りにならない時は、そこに怒りや苦しみを感じます。親しい人との別れの悲しみも、そこには我執という煩悩があ
るのです。愛する人には、ずっと傍に居てほしい、変わらないでほしいと願いますが、それも永遠に続くはずがない
のが真実です。人間として生まれた限り、いつか必ず命を終えていかなければならないのですから。まして命には順
番すら決まっていないのです。頭では理解していても、別れに直面した時には、深い悲しみを抱くのが私たち人間です。そんな私たちに説かれた阿弥陀如来様のお救いには、人間の命終わって終わりでない世界があることも説かれてあるのです。必ずまたお会いすることの出来る世界があることを聴かせていただく時に、初めてその苦悩を超えていくことが出来るのではないでしょうか。それがお経の本当の意味なのです。
 
 ですから、お墓やお仏壇での読経は、私たちから亡き方への読経ではなく、阿弥陀如来様や先に仏となられた方からの願いやメッセージを、私たちが心強さとしていただくためのものなのです。 合掌
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