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法話

仮の教えと真実の教え

今月のご法話は親鸞聖人のご和讃からお味わいをさせていただきます。

ねんぶつ成仏じょうぶつこれ真宗しんしゅう まんぎょう諸善しょぜんこれ仮門けもん

ごんじつしんをわかずして 自然じねん浄土じょうどをえぞしらぬ

      (高僧和讃)

 

他力念仏のはたらきによって仏にならせていただくのが浄土真宗の教えです。自らの力で、さまざまな修行やもろもろの善行を励んで仏になる事を説く教えは、仮の教えにすぎません。真実の教えと仮の教えとをわきまえる事をしないで、浄土の世界を知ることは到底出来ないでしょうと、自力の教えを往生浄土の本とするのでなく、念仏の教え、如来様のお救いにお任せすることをお勧めくださったご和讃です。

 
さて、如来様のお救いにおまかせすることをお勧めくださった親鸞聖人ですが、そのご生涯は、自力(仮門)の道を歩むことから始まりました。九歳で出家お得度されて、二十年間、比叡山で自力の修行をされました。
 
しかし、親鸞聖人は、自力の道を歩んでいても、自らの苦悩をぬぐいさることは、到底できることではないと気づかれ、法然上人を訪ねて下山されます。そこで、ご本願の他力の教えに出遇われたのです。聖人は法然上人の教えを聴き、たとえその教えが間違いであり、地獄に堕ちることがあっても、私はもともと地獄へ向かう愚かな者であるから、後悔しないとまで言われるほどでありました。
 
法然上人のもとで、真実の教えに出遇った聖人ですが、もし聖人が比叡山での自力の修行をされていなければ、はたして法然上人の教えを本当に受け入れることができたでしょうか。他力の教えとは、まず自分の愚かさを知ることが最も大切なことです。そこで、自力の教えが仮の教えであるというのは、自分一人の力では、なかなかさとりをひらくことのできない弱い存在であることを、私に知らして下さる教え、つまり他力の教えに導いてくださる教えとして意義があるのではないでしょうか。
 
さて、私は病院に行くのが大嫌いです。どなたでも一度は病院に行かれたことがあると思いますが、病院はどのような時に行くのでしょうか。のどが痛いくらいでは、私は行きません。せいぜいうがいをして終わりです。しかし、骨折したとか激痛がやまない時などは、病院に行きます。当たり前の様な話しですが、自分でなんとかなりそうな時は行きません。しかし自分ではどうしようもできない時は、病院に助けを求めます。
 
病気を自分自身の煩悩に、病院を阿弥陀如来様のお救いに置き換えてみると、自分ではなかなか病院に行こうと思わないのと同じように、今すぐ弥陀如来様のお救いにおまかせしようとは、なかなか思えないのかもしれません。その原因は、自分の苦しみは、自分で何とかできると思うのか、はたまた自分が煩悩という病気をもっていること自体を気づいていないのかもしれません。
 
親鸞聖人のご生涯とは、まず自分の苦しみは自分の中の煩悩があるからと気づき、自分ではどうしようもないものということを自力の修行によって知らされたものでした。そして、自分ではどうしようもないものと気づかれたからこそ、阿弥陀如来様の他力のお救いにおまかせされたのでした。
 
仮の教えを聖人自らのご生涯で経験され、そのうえで私たちに他力の教えをお勧めくださっているのです。必ず救うぞとお誓いくださった如来様のお心を聖人のご生涯を通して改めて聴かせていただくことでございました。

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