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法話

如来様から賜る長寿のご利益

 

南無なも阿弥陀仏あみだぶつをとなふれば   このやくきはもなし

流転るてん輪廻りんねのつみきえて    定業じょうごう中夭ちゅうようのぞこりぬ  (浄土和讃)

今月は、親鸞聖人がこの世のご利益を詠まれたご和讃を味わってみたいと思います。

 
このご和讃は、阿弥陀如来様のご本願を信じ、お念仏の人生を歩む中で、この世において限りないご利益をいただくと讃えられ、その中でも特に定業中夭がのぞかれるというものです。
 
定業とは生まれつき決まっている寿命をいい、中夭とは寿命半ばで亡くなることをいいます。ではこの定業中夭がのぞかれるとはいったいどういうことでしょうか。
 
まず、人間の寿命を考える時、一体何歳が寿命であり、何歳までが寿命半ばなのでしょうか。五十歳で亡くなっても寿命であったと考えられますし、八十歳で亡くなっても中夭であるとも考えられます。
 
そもそも人間の死に、寿命や寿命半ばなどを考えること自体、本当は無意味なことなのかもしれません。親鸞聖人が「定業中夭のぞこりぬ」とおっしゃったのは、寿命を尽くすとか、途中で死ぬとかいう命に縛られないことが、この世のご利益であるとおっしゃっているのです。
 
一般的に、長生きすることは素晴らしいことであるように思われ、いつも長生きしたいと思って生きているのが私たち人間です。しかし、ただ長生きするこが、本当に人間にとって幸せなことなのでしょうか。
 
昔、百歳の双子の“きんさん、ぎんさん”という方がおられましたが、百歳のお誕生日の感想を聞かれた時に「うれしいような、悲しいような」とお答になりました。この年の語録賞を受賞した言葉ですが、この言葉こそ本当のところではないでしょうか。
 
周りの人はめでたいめでたいと言うけれども、百歳になって体もいうことをきかなくなり、誰かに支えてもらわなければ生きていけなくなってくる。長生きすればするほど、親も子も、孫までも見送っていかなければならないような、悲しみに出遭うことにもなるのです。ただただ長生きすることが本当の幸せとは、とても言えません。
 
親鸞聖人がいただかれた命の喜びとは、阿弥陀如来様のご本願により、私の命の帰る場所が、もうすでに用意されていることに気付いていくことです。今生の命が尽きる時には、今度は仏として生まれさせていただけるのです。
 
死んで終わりでない命を生きている私であったと、大きな安心の中に生きる人生こそ、本当の幸せな人生であると言われているのです。
 
ですから、ことさら長寿を願う必要もなければ、短命を恐れる必要もありません。生きて良し、死んで良し、どんな死に方になっても良しと、生死に縛られない人生に目覚めていく、そんな如来様から賜る長寿のご利益を「定業中夭のぞこりぬ」と親鸞聖人はお示しくださったのです。     合 掌

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