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法話

苦しみからの導き ~善知識~

 さいわいに有縁うえん知識ちしきらずば、いかでか一門いちもんることをんや。まったけん覚悟かくごって他力たりき宗旨しゅうしみだることなかれ  (歎異抄・序)

歎異抄の中の一文ですが、著者である唯円様が、私達がお浄土へ向かう他力念仏の道は「有縁の知識」によるものであって、「自見の覚悟」であってはならない。といわれました。

 
有縁の知識とは我々が仏法に出遇う縁となる師や友のことをいいます。善知識ともいいますが、他力のお念仏の道はその善知識(ぜんじしき)によるものであって、自見の覚悟であってはならないと言われています。つまり自分の勝手な判断や理解ではなく、本当の導きによって心の幸せをいただきなさいと示されているのです.
 
平安中期の歌人の和泉式部が、こんな歌を残しています。
 
この世をば、 あだにはかなき  世と知れと 
 教えてくれた 子は知識なり 
 
情熱的な人生を送った女流歌人であり、恋多き女性としても知られる和泉式部は、四十七歳の時、最愛の娘であった小式部を病で失います。
 
愛娘との別れという深い悲しみの中で、苦悩の毎日を送っていたある時、ふと頭をよぎったのは、「こんなに私を苦しめ、辛い思いの中に閉じこめているのは、私をおいて小式部が死んだからだ。亡くなった娘のためにこんなに苦しい日々を送らねばならない。私を苦しめているのは娘ではないか」と、愛して止まなかった娘を、いつしかかえって恨みに思う自分を見出し、人間の心の恐ろしさを思ったそうです。
 
そんな中、仏の教えに出遇い、死んだ娘が私を苦しめているのではなく、娘の死という無常の道理を引き受けることができず、娘に対する断ちがたい執着心こそが、私を苦しめているのだと気付かされ、詠んだ歌がこの歌だということです。
 
辛く苦しい事は、思い出したくありませんし、無かったことにしたいものです。しかし、その辛く苦しいことも、私自身のまぎれもない事実なのです。しかし、ただ事実であることを思っても全く苦悩は解決されません。その苦悩の中に、私への導きがあることに気付かせていただくことによって、本当の幸せや苦しみの解決があると仏法には説かれているのです。
 
できれば会いたくなかった事柄も、一切すべてが私への導きであると、拝んで頂けるようになる仏の道があることを、人やさまざまな縁が教えてくださるのです。それを善知識、有縁の知識といいます。
 
私を苦しめ悩ませる元としか思えなかった亡き娘は、私を仏の智慧に導いてくれた縁であったと気付かされ、善知識として見出すことができるようになったわけです。
 
悲しみの中にも亡き方を仏のはたらきとして、私の導きとして知らされる時、本当の感謝と幸せをいただけるのです。不幸というのは、別れの悲しみや病の苦

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