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法話

さわりおおきに徳おおし

御和讃とは浄土真宗を開かれた親鸞聖人が、教えの中でとても大切なことを、漢文を読むことのできない人々のために誰にでも判る様に七五調の親しみやすい和文で書かれたものです。今月は高僧和讃の一首を聴かせていただきます。

 

罪障功徳の体となる

こほりとみずのごとくにて

こほりおほきにみずおほき

さはりおほきに徳おほし
 
私たちは人生のなかで、さまざまな悩みや苦しみに出合います。そしてその悩みや苦しみのほとんどは、自らの欲や妬みの心といった煩悩が原因となっているのです。仏教では、阿弥陀様のお心にそむき、未来に苦をまねく種となるような悪行を罪障と言います。
 
そして私たちは、苦しみの原因となる自らの罪障を、なかなか気づくことも拭い去ることもできません。親鸞聖人は、苦しみの人生の中にありながらも、その人生がそのままお浄土へ向かう人生へと転じられる教えをお示しくださいました。
 
今月の御和讃を簡単に訳しますと「私たちの罪はそのまま功徳となっていくのです。それはまるで氷と水のようなもの。氷が多ければ、溶けたときには水が多いのと同じように、私の罪が多いということは、功徳もまた多いのです。」という意味です。
 
一見、罪障が多ければ多いほど、功徳があるように受けとってしまいそうですが、それでは、聖人がお示しくださった教えとはまったく違ったものになってします。
 
ある方は、なるべく良い行いをしようと努力し、私の角がとれてきたとおっしゃいました。何とか苦しみの少ない人生を歩もうと、精一杯努力をしていく。そんな自分の姿を角が取れたと思われたのでしょう。私たちが日々の生活の中で、一生懸命苦しみのない人生にしようと、努力を重ねていくことは、とても大切なことです。
 
そして、それはたくさんの反省を生むことができます。しかし、その反省をただただ反省のままに終わらせ、自分は十分努力をしたのだから、それでも苦しみが無くならないのであれば、それは仕方がない事。と思うのでは、絶えることのない苦しみの人生を悲嘆するだけの人生になってしまいます。
 
あるご門徒様は、ご聴聞をするようになって益々自分の角が見えてきたとおっしゃいました。どれほど努力をしてみても、私の人生が苦しみや悩みの連続であるのは、自らがとんでもないほど大きな罪障を持っているためと気づき、角が見えてきたと表現されたのでしょう。
 
仏法を聞いていくということは、止むことのない私の罪を共に苦しみ、共に悲しんでくださる阿弥陀様に、申し訳ないという気持ちの中から、どうしようもないほど罪深い私であったことを知らされるということです。そして、私の罪の深さを知らされれば知らされるほど、そんな罪深い私だからこそ放ってはおれないという、阿弥陀様のお慈悲のお心に、心強さと感謝の気持ちが生まれるのでず。
 
すなわち、尽きることの無い苦しみの人生から、感謝の人生、お浄土へ向かう人生へと転じられるということなのです。「さはりおおきに徳おほし」とは、罪障が多いほど、徳が多いというのではく、自分は罪障が多い人間であると知らされたと同時に、その罪障をまるごと包みこんでくださる如来様のお徳の広大さを知るということなのです。阿弥陀様のお救いの世界は、苦しみの種であったはずの私の罪(氷)が、そのまま感謝の人生への種(水)となっていく世界なのです。
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