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法話

ともにまた一つの場所で会う教え

今月は秋のお彼岸を迎えます。お彼岸とは、「かの岸」、つまり極楽浄土を表します。お浄土へ生まれ、仏となられた亡き方を偲ばせていただく中で、私がお浄土へ生まれていく道を聴かせていただくのが、浄土真宗のお彼岸です。
 
さて、以前、五十六歳の夫を突然の脳梗塞で亡くされた女性が、お葬式が終わって間もなく、お寺に訪ねてこられたことがありました。
 
その方は、「亡き主人は、今は何処にいて、どうなっているのでしょうか。今日まで私は、人間の命は必ず終わりがくることも理解していました。その命が終わればすべてが終わりであると思っていましたが、あまりにも突然で、はかない主人の死に直面して、一体何をしてあげればいいのかもわかりません。主人をどうか安らかに眠らせてあげたいと思っているのですが、どうすればいいのでしょうか」と、涙ながらに思いを打ち明けられました。 
 
私たちは、死は必ず来るものであると知りながらも、それを遠い先のことと思い込み、親しい人の死に直面した時には、誰もが起こる苦しみといえるでしょう。また愛していればいるほどその苦しみは深いものであります。
 
浄土真宗のお経の中の仏説阿弥陀経には「倶会一処(くえいっしょ)」という言葉があります。浄土真宗の墓石の中央によく彫られる言葉ですが、「ともにまた一つの場所で会う」という意味のお釈迦さまのお説法に出てくる言葉です。
 
阿弥陀経では「先にお浄土に生まれた者たちのことを想い、そして自分も浄土に生まれたいと思うのであれば、お浄土と阿弥陀如来についてよく聞きなさい。必ず浄土でともに会えます」というお説法です。
 
「倶会一処」はもちろんこの身での再会のことではありません。ですが、人としての今、この身で慶びとして実感出来るのです。それは、悲しい別れであったけれども、あなたも私も往くべき世界が一つであるという慶びや、私が亡き方を案ずる前に、仏となられた方が私を案じてくださっているという心強さを、仏法に聴かせていただけるからです。
 
私たちの人生には悲しい別れや、つらいこともたくさんあります。何が起こってもおかしくない世界に生きている我々です。しかし、歳月を重ねてもう一度その過去を振り返るとき「生きてきて良かった」「悲しい別れがあったけど、出会えて良かった」「尊いご縁であった」と言える人生を送りたいものです。それがお念仏をいただいた者の人生だと思います。
 
私の祖母は平成十一年に亡くなりました。とても優しく、畑仕事が大好きで、毎朝毎夕欠かすことなく、お寺の鐘をつくのが日課でした。そんな祖母の死は、私にとって大きなショックであると共に、この上ない悲しみでした。悲しみは今でもあります。もっと色々してあげれば良かったと思うこともよくあります。でも、その悲しみよりも大きな心強さを、今、祖母が私に与えてくれていると思う時、浄土真宗の教えを聴いてよかった。お念仏に出遭わせていただいてよかったと、心からそう思います。     合 掌

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