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法話

私一人のための救い

如来の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして

回向を首(しゅ)としたまひて 大悲心をば成就せり

 

「阿弥陀如来様が一切すべてのものを救うと誓われた、ご本願のいわれを尋ねると、苦しみや悲しみに苦悩する人間を見捨てることができず、私たちに大きな慈悲の心を照らすことを第一として、ご本願を建てられたのです。」という意味です。

 
さて、私には五歳になる娘がおります。先日娘が「どうしてお父さんは力持ちなの」と突然質問をしてきました。「お父さんの方が筋肉があるからだよ」と答えると、「どうしてお父さんの方が筋肉があるの」と尋ね返してきます。
 
一瞬嫌な予感はしましたが、「それはお父さんの方が体が大きいからだよ」と答えると、やはりまた「どうして体が大きいの」と。アニメ一休さんの“どして坊や”のような質問攻めをしてきました。その場は何とかごまかしましたが、一体何が聞きたかったのか疑問に思っていました。
 
何日かたったある日のこと、お気に入りのぬいぐるみに向かって「私がいるから大丈夫よ」とつぶやいている娘の姿に、あの時の質問の意図が分かりました。
 
早速娘を呼び、「お父さんが力持ちなのは、ののちゃん(娘)を守ってあげるためだよ」と言うと、「うん。わかった。」と満足気な顔で抱きついてきました。
娘は、どうして私が力持ちなのか、科学的な根拠を知りたかったわけではなく、どうして私が力持ちでいるのかを聞きたかったのでした。
 
如来様のお救いを聴かせていただく姿勢も本来そのような姿勢でなければなりません。如来様の救いに対して、どんな力で救ってもらえるのかと疑い、この世のご利益や、お浄土の楽ばかりを聞きたがる私たちです。しかし、本当は、どうして私を救わずにはおられないと、願っていてくださるのか、如来様の慈悲の心を聴いていくことが一番大切なのです。
 
「慈悲」とは、相手の苦悩に、「辛いね、悲しいね」と共感する「悲しみ」の心であり、一切の見返りを求めず、その人の幸せをどこまでも願う「慈しみ」の心であります。それは「悲しみ」に根源があり、相手の痛みに共感するからこそ、相手の幸せを願う事ができるのです。
 
阿弥陀様が願いを起こされたのは、苦悩の真っ只中にある私を放ってはおけないと、私の苦悩に寄り添い、その苦悩を抜き取るためであります。「あなたを見捨てる事が出来ない」という、私に向けて建てられた願いなのです。
 
常に私の前に横たわっている老病死の問題を、他人事ではなく、私のこととして知らせて頂き、あらゆる苦悩を持つ私のために如来さまが、苦しんでいて下さるのです。どのような困難に出会っても、私一人のための本願であったことに感謝し、慶ばせていただきましょう。
 
「我常に如来と共にあり」といいますが、私の愚かさや苦悩を、どれだけ悲しんでおられるかと思うとき、感謝のお念仏の日暮を送られていただきたいものです。
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