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法話

大悲のお心

月々の法話では、ご和讃を聴かせていただきます。和讃とは浄土真宗を開かれた親鸞聖人が、教えの中でとても大切なことを、漢文を読むことのできない人々のために誰にでも判る様に七五調の親しみやすい和文で書かれたものです。今月号で聴かせていただくご和讃は高僧和讃の中の一首です。

 

煩悩ぼんのうにまなこ障えられて 摂取せっしゅ光明こうみょうみざれども 大悲だいひものうきことなく つねにらすなり

 

これは、聖人が阿弥陀如来様から自分にむけられている、「必ず救うぞ、いつもそばにいるぞ」という大悲のお心を慶び、その教えを伝えてくださったさまざまなご縁と善知識に感謝のお心を詠まれた一首です。
 
 阿弥陀如来様の大慈大悲のお心がなかったら、またそれを、お釈迦様がお説きになり、インド、中国の高僧がその教えを伝えられなかったら、そしてまた、法然上人と親鸞聖人が出遇われておられなかったらと、何一つ欠けていても阿弥陀如来様の教えに出会うことはできなかったのです。
 
そして、そのお救いを心の支えとして、大きな安心の中で生き抜くこともできないでしょう。阿弥陀如来様のお心がなんとも有難い事を思えば思うほど、今私がその教えを聴かせていただくことができたご縁と、さまざまな方々のご苦労に、感謝をせずにはおられません。
 
 さて、私は大学時代、毎週日曜日に子供と一緒にお寺に集まり、一緒にお経をおつとめしたり、ゲームをしたりする、いわゆる日曜学校を行うサークルにはいっておりました。その時に、この恩徳讃のお話しをする機会がありました。その時の子供たちの反応は、みんな暗い顔をしていました。
 
それは、恩徳讃のフレーズに問題があったようです。「身粉にしても」「骨をくだきても」の言葉が子供たちにはとても怖かったのでした。何とかわかってもらいたくて、あらためて話をしました。
 
「如来様が私の事を心配してくださることに、どうにかしてお礼言いたい。阿弥陀様のお気持ちを私に伝えてくださった方々へも、なんとかしてお礼を言いたい。」と、自分なりに言葉をかえて子供に話すと、分かったような、分からないような顔をしながらうなずいてくれました。
 
 親鸞聖人が「身を粉にしても」、「骨をくだきても」と、大人でもちょっとびっくりしそうなこの言葉を、お使いにならずにはおられなかったところに、聖人の阿弥陀如来様への感謝のお気持ちが深かったことがうかがわれます。
 
如来大悲とは、愚かな私を見捨てるのではなく、いつでも自分の悲しみとしてくださるお心です。普段はなかなか忘れがちですが、いつでも阿弥陀如来様の大慈大悲の光に包まれている私達です。感謝の気持ちを忘れず、有り難うございますと、お念仏申す人生を送らせていただきたいものです。 
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