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法話

悪人こそが救われる教え

 

善人ぜんにんなほもつて往生おうじょうをとぐいはんや悪人あくにんをや

 

今月いただきましたのは、『歎異抄』という書物の一文です。有名な文言ですので、一度は耳にされた方も多いのではないでしょうか。「善人ですら往生をとげるのです。まして悪人がとげられないことがありましょうか。」という意味です。

 
   親鸞聖人のお言葉として残されているものですが、一見、悪を犯す者が救われていく様にも思える文言です。ここで言う善人とはいったいどんな人のことを言い、また悪人とはどのような人を指すのでしょうか。
 
ふつう善人とは、頭がよくまじめで、自他に安らかな幸せをもたらすような行為の出来る人をいい、悪人とはそれとは反対に、罪深い事ばかりを行い、自他ともに不幸におとしめていくような行為をする人を言います。ですが、この解釈では、聖人がこのお言葉に込められた深い意味を正しく理解することはできません。
 
親鸞聖人はご自身のことを悪人であるとおっしゃっています。しかし、私をはじめ、聖人を悪人であると思っている人はおられないでしょう。聖人が使われた悪人というのは、自分自身を嘘いつわりなく、素直に省みた時に、自らの心の中にある愚かで恐ろしい人間の本当の姿を示されているのです。
 
そして聖人が示された善人とは、「自力作善(じりきさぜん)の人」です。自力作善とは、自力で修めた善によって往生できる人のことです。しかしこれは並大抵のことではありません。
 
私たちは、せいぜい自分は悪いことなどしていないから、善人であると思いこんでいるだけなのです。自らを善人と思い込んだ「善人」ほど、恐ろしいものはありません。
 
自分の正しさを疑うこともなく、その自己中心的な正しさをもって、他を傷つけ、自分自身をも苦しめているのです。つまり、苦しみや悩みが消えない人間は、とても善人とは言えないのです。如来様の救いとはその苦しみや悩みの止まない私たちに向けられた救いなのです。
 
さて、私は幼い頃から、風邪をひけばすぐに高熱を出す体質で、体温計が四十度を超えることもざらでした。ですが、私にとって風邪をひく事は、どちらかというと楽しみの一つでもありました。というのも、普段は厳しい母も、風邪をひいた時には本当に優しく、プリンやジュースを好きなだけもらえるのも病気の時だけの特権だからです。
 
病気の我が子を看病する母は、何か見返りを求めて行うのではありません。子を愛する母にとって我が子が病んでいるという、ただそれだけで、身も心も捧げて看病せずにはおれないのです。
 
ちょうどそれと同じように、阿弥陀如来様の救いは、捨てきれない煩悩に悩まされ苦しむ私たちであるからこそ、救わずにはおれないという慈悲のお心なのです。そのお心を受ける私たちは、ただただわが身の愚かさを自覚して、その救いの深きことを感謝するほかにはないのです。
 
悪人が往生をとぐいわれは、自らの悪を自覚した者こそが、如来様の救いにお任せすること以外に、私が救われていく道が無いことに気付くことが出来るからなのです。
 
                  合 掌
 

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