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法話

「死んで終わり」ではない世界

 

如来にょらいじょうしょうじゅ  正覚しょうがくのはなより化生けしょうして

衆生しゅじょうがんぎょうことごとく  すみやかにとくまんぞく
  

今月いただきましたご和讃は天親讃の中の一首です。また、このご和讃はお葬儀の時にも詠まれます。
 
   浄土のきよらかな蓮華のもとにおられる方々は、みな阿弥陀如来様の花(救い)から生まれられたのです。それは私たちが浄土に生まれたいという願いを満たされた姿であります。という意味です。
 
「如来浄華の聖衆」とは「浄土に生まれた方々」という意味の言葉です。そして「正覚の華」とは、「あなたが命終わる時には、私が必ず仏として生まれさせましょう」という仏様のお心を蓮華のように花開いた心、正覚の華と喩えられたのでしょう。
 
また、仏様のお心を蓮華に喩えられることは、私たちの煩悩の泥濁に染まらない悟りを持ちながらも、その根は私たちの汚れた心の中にしっかりと根付いておられることを意味しています。
 
 つまり、仏様の救いは、まさに私たちに向けられたものであり、その救いによって誰一人としてもれることなく、浄土へ生まれていくことができるのであると、示されているのです。
 
さて、私が小さい頃は、いわゆる“おばあちゃん子”でした。祖母が一人で出かけると、泣きながら裸足のまま追いかけて行くこともあったそうです。たくさんの事を教えてくれた、とてもやさしい祖母でした。
 
そんな祖母が、私がまだ小学生の時でしたが、こんな事を話してくれました。「誰でもいつかは死ななきゃならん。順番通りに死ねるかどうかも分からないけど、あなたより先に死にたいなぁ。もしそうなった時には、悲しむことはないんだよ。安心してていいんだよ」と。小学生の私には、いったい祖母が何を言おうとしていたのかは、わかりませんでした。
 
十年前、私が二十三歳の時、祖母は亡くなりました。お通夜の日、その祖母の言葉を思い出しました。ですが、その時は、ただただ悲しくて寂しくて、一晩中祖母の棺の前で泣いていました。
 
今思うと、祖母が言いたかったのは、「先に私が死ぬことになっても、いのちが無くなるのではありません。阿弥陀様の救いによって、お浄土に仏として生まれるのですよ。先に仏として生まれて、あなたをいつでも見守っています。いつかは必ずお浄土であえるのだから、悲しむ必要はないのですよ」と言いたかったのでしょう。
 
 亡くなった祖母が一番喜んでくれるのは、私が悲しんでいる姿ではなく、命終わる時には仏として生まれ、必ずまた会うことが出来るのだと、安心の中にこの人生を精一杯生き抜いていく私の姿だと思います。
 
如来浄華の聖衆とは阿弥陀如来様の「必ず救うぞ」というお慈悲の心で、煩悩をもつ私たちが、そのまま仏とならせていただく姿であります。仏法は「死んで終わり」ではない世界を気付かせていただき、悲しみや苦しみを乗り越えていける、心の糧となるのです。
 

                          合 掌 

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