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法話

他力本願のこころ

 今月の法話では、他力本願についてお味わいさせていただきたいと思います。
「他力本願」という言葉を初めて聞いたという方はまずおられないでしょう。浄土真宗のご門徒さんであれば、「他力本願」が仏教用語であることもよく知っておられますが、一般的にはご存知無い方がほとんどかもしれません。
 
広辞苑にも、「もっぱら人の力をあてにすること」と載っています。たとえば、「もうちょっと自分で努力しなさい。人任せな他力本願ではけません。」なんて使い方もよく耳にしますが、本来の他力本願の意味とは全く違います。では、親鸞聖人がお勧めくださった、他力本願とはいったいどうゆうことなのでしょか。
 
他力とは誰の力
 
まず、他力という言葉ですが、反対語は自力です。文字の意味だけを見ると、自らの力に対して、他の誰かの力と、とらえられがちですが、仏法ではそうではありません。
 
仏教の中にはたくさんの宗派があり、私が仏になるという目標はどの宗派も同じです。そして、どの宗派においても、私が仏になるというのは、私と仏様との間での問題であり、そこに第三者との関係はありません。
 
実際、私も今までにたくさんのお坊さんに会いましたが、誰かをお浄土へ渡してあげたというお坊さんには、残念ながら一度もお会いしたことがありません。つまり、仏法でいう自力他力は、私の力を自力と言い、仏様のハタラキを他力と言うのです。 
 
このことを聖人は『教行信証』に、「他力といふは如来の本願力なり」と、まさに阿弥陀如来様のハタラキこそが他力であることを、はっきりとお示しくださっております。
 
本願とはどんな願い
 
他力本願の「本願」は「誓願」ともいいますが、阿弥陀如来さまが私たちに向けて建ててくださった願い、誓いをいいます。その約束によって私がお浄土へ生まれていく教えが他力本願なのです。
 
仏説無量寿経というお経さんの中に四十八願という阿弥陀如来様の四十八個の願いが説かれています。その中でも第十八番目の願いによって私たちは仏に生まれるのだと、親鸞聖人はお勧めくださいました。
 
具体的には、「たとえ私が一人で仏になることが出来たとしても、迷い苦しむ、すべてのものが、私の願いを聞き、慶びの中にお念仏を申し、必ずお浄土へ生まれて欲しい。もしたった一人でも出来ない人がいるならば、私は一人では仏になりません」という教えです。
 
他力本願の願いとは、私の欲望をかなえてくださるような願いではありません。必ずあなたを仏に生まれさせてあげたい。それが私のすべてであるという、どんなに親不孝な子供であっても、決して見放してくださらない親心のような願いなのです。
 
なぜ自力でなく他力
 
 親鸞聖人は、他力本願のお救いにより、仏に生まれていくことを私たちに勧められました。なぜ自力の道を勧められなかったのでしょうか。
 
親鸞聖人ご自身も九歳の時にご出家されてから、二十年間、比叡山で自力の修行に励まれました。しかし、どんなに仏となるための修行を重ねてみても、自分の心の底にある悪を無くすことは、到底できることではないことを、知らされるばかりでありました。
 
そしてまた、それを素直に認めていかれたのも親鸞聖人でした。だからこそ、迷い苦しみから抜け出すことの出来ない私たちは、ただ如来様の願いに、おまかせをするしかないと気づいていかれたのでした。
 
他力本願の教えは、迷いの中に埋もれ、決して一人で仏になることは出来ない私を見抜いてくださったからこそ、阿弥陀如来様が立てずにはおられなかった願いなのです。
 
               合掌

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