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法話

正信偈に聴く③

(ゆう)(ぼん)(のう)(りん)(げん)(じん)(ずう) (にゅう)(しょう)()(おん)()(おう)()

(煩悩の林に遊んで、神通を現し、生死の薗に入りて応化を示す) 


 今月の法話は、正信偈に天親菩薩のお言葉として出てくるご文です。「人間の命を終え、浄土に生まれる時、私達は如来さまと同じはたらきをする仏様になります。そして煩悩に苦しむ人間の世界に還ってきて、いろいろな姿にかたちを変えるなど、さまざまな手立てを尽くして、生まれかわり、死にかわりする人々を、浄土へと導く仏様のはたらきにつかせていただくのです」という意味です。

 仏教には「往生」という言葉があります。一般的には「高速道路の渋滞には往生した」とか、「事故で電車がとまって立ち往生だった」など、困った時などによく用いられている言葉です。

また、「隣のおばあさが昨日往生した」など、「死ぬ」という意味でも使われています。長生きした人には“大”の字を付けて、「九十才なら大往生だ」という言葉もちょくちょく耳にします。しかしこれは、本来の意味とは全く違います。

「往生」とは書いて字のごとく、「往き生まれる」という意味です。「困る」とか「死ぬ」という意味どころか、全くその反対です。

親鸞聖人がお勧めくださった、往生浄土の教えは、人間の命終わる時、私たちは阿弥陀如来様の願いに救い取られて、お浄土へ生まれ、阿弥陀如来様と同じ仏の身に生まれさせていただくのだとお示しくださいました。仏様と同じ身になるというのは、他の人々を導くはたらきを、自らの喜びとする身にならせていただくことです。 
 
  仏としてお浄土へ往き生まれられた方は、現世の迷いの中に、苦しみ悲しむ私達に「あなたも必ずお浄土へ生まれさせていただく身なのですよ。どうか忘れないで生きてくださいね」と、私達を導き、照らし続けてくださっています。

そしてそれが、仏になられた方の無上の喜びなのです。ですから、そのはたらきを正信偈には「遊ぶ」と仰せられました。

昔の浄土真宗の先人たちは、お葬式にお赤飯を炊いたこともあったそうです。残していく遺族への不安の中にも、「今度は本当の意味で遺族を救えるはたらきができる」と歓ばれたのです。

必ず死んでいかなければならない人間ではあるけれども、死んで終わりではない世界が、仏様の世界なのです。

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