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法話

仏として生まれる命

中葉書は何のため

早くも師走を迎えました。この時期になると、いたるところから、喪中葉書(年賀欠礼)が届きます。年内に身内が亡くなった時には、皆当たり前のように出されていますが、この喪中葉書というのは、本当に、意味のあることなのでしょうか。

そもそも喪中というのは、死をケガレとして考え、忌み嫌い、死人が出た家を、喜ばしい行事などから、一定期間隔離しようとしているものです。つまり、喪中葉書は、我が家は死人を出した穢れた家であるから、慶事を辞退しますという意味なのです。なんだか亡くなった方に申訳ないような気すらしてきます。

 そうはいっても、社会的なつながりを考え、わざわざ常識外れなことはしたくないという方もいらっしゃるでしょう。とても新年を慶ぶ気持ちにはなれないという遺族の想いから、喪中葉書を出すというのも、よく分かります。しかし、浄土真宗のみ教えをいただく者としては、喪中葉書を出す意味と、亡くなった方の命について、よくよく考えていく必要があるでしょう。

命の日

仏教には、祥月命日というのがあります。この祥月という言葉は、喜ばしい月という意味です。どうして人が亡くなった日が喜ばしい日なのかと、不思議に思われるでしょうが、命日とは人間の命を終えた方が、仏として命お生まれになった日であると考えるからです。 

人間死んだらごみになるとおっしゃった方もいましたが、それではあまりにも悲しい生き方に思えてなりません。死ねばゴミになるのだから、生きている間は何をして良いという、恐ろしい考えにも繋がっていきかねません。ましてや、最愛の人が亡くなった時に、その人をゴミとして扱うのでしょうか。

仏様の教えでは、人間死んだらゴミになるのではなく、仏として生まれていくのです。だからこそ、私たちがこの人生を安心と希望の中に、謳歌していくことができるのです。そして、亡くなった方が仏となって、いつでも私の傍にいてくださるという、その心強さによって、苦しみや悲しみを乗り越えていくことができるのです。

 

ともかくもあなたまかせの年の暮れ

俳人小林一茶の句です。念仏者の俳人としても知られる一茶は、五十一歳で結婚をし、長男が生まれますが、生後一ヶ月で、病のため我が子を失います。次に生まれた長女もまた、一年で病死。悲しみのどん底の中で、この句を詠んだそうです。

この句の“あなた”とは、死んだ我が子を仏として生まれさせ、仏となった我が子と一緒に、私を見守り導いてくださっている、阿弥陀如来様へ感謝の気持ちを詠んだ句なのでしょう。

 一年を振り返った時、たくさんの方々のお蔭で今私が生きている事への感謝と、いつでも私の傍で、浄土へ生まれていく道を照らし続けていてくださる、阿弥陀如来様への報謝のお念仏とともに、新しい年を迎えていきたいものです。

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