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法話

お盆の縁に聴く

お盆は八月十五日を中心にして行われる仏教徒の一大行事です。お釈迦様のお説きなった「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」という教えがもととなっています。  
 
目連尊者という方が神通力を使って、亡くなった母の居場所を探したところ、餓鬼道で飢えと乾きに苦しむ母の姿を見つけました。食べ物や飲み物を渡しても、口に入る瞬間に燃えてしまうという、苦しみの世界です。自分の力ではどうしようもできない事がわかると、泣きながらお釈迦様に救いを求めました。そして、「安居(あんご・僧侶の勉強期間)が終わった修行僧たちを供養せよ」という、お釈迦様の教示に従って、すべてを捨てて修行僧たちに飯食をふるまいました。すると目連尊者の母は、餓鬼道から天上界に生まれ変わったというお話です。
 
現在では、亡き方の霊を鎮めるといった民族信仰などが結びついて、本来のお盆の意味とは異なることが、あたりまえの様に行われています。例えば、お盆になると地獄の釜のふたが開き、亡き方が戻ってきて、三日経つと茄子の牛に乗せて、地獄に送り返す。なんだか先祖を敬っているのか、いないのか、よくわからない風習もあります。では、浄土真宗の教えを聴く私たちは、どのようにお盆を受け取っていけばいいのでしょうか。
 
そもそも目連尊者の母が餓鬼道に堕ちたのは、我が子の為であれば、他の子供はどうなってもいいという、心の悪が原因であったと言われています。しかし、子を思う母の愛としては、いたしかたないことであるのかもしれません。自分を本当に愛してくれた母であるからこそ、目連尊者はなんとかして救いたかったのでしょう。しかし、この「盂蘭盆経」の教えの一番大切なところは、目連尊者の力をもってしても、直接母を救うことはできず、修行僧たちを供養することで、救うことができたというところです。
 
「供養」というのは、三宝(仏・法・僧)を敬う気持ちを形に表すことです。目連尊者の母が救われたのは、修行僧を供養する我が子の姿を通して、三宝の尊さに気付き、仏法に帰依する心が生まれたからなのです。
 
お世話になったご先祖のために、何かをしてあげたいという気持ちは大切です。しかし、お盆だからお供えをして、お経を読みさえすれば、それで良いというのではありません。お盆という縁の中で私自身が仏法を聴き、浄土へ生まれる真実の教えに目覚めていくことが大切なのです。
 
目連尊者の母が堕ちた餓鬼道とは、いつもあれが欲しいこれが欲しいという欲望に苦しめられている者の姿です。考えてみてください、まさに私たち人間の姿なのです。仏になられたご先祖様が一番望んでおられることは、餓鬼と同じ欲望に苦しんでいる私が、仏となる道を歩んでいくことなのです。
 
                                       合 掌
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