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法話

慚愧(ざんぎ)の心

蛇蠍奸詐(じゃかつかんさ)のこころにて 自力修善はかなふまじ

      如来の廻向をたのまでは 無慚無愧(むざんむぎ)にてはてぞせむ

     

この御和讃は、親鸞聖人が自らを愚禿(愚かな者)と名のり、自分自身も含めて、人間の愚かな姿、不真実の姿への、悲しみ嘆きの想いを詠まれた御和讃です。
 
「蛇やサソリのように、毒のある恐ろしい心をもった私たちが、どれほど自力で善行を積もうとしても、苦しみや迷いから離れることはできないでしょう。阿弥陀如来様のはたらきである、信心におまかせしなければ、恥じ入るばかりの我が身であることに、気付くことなく、この世の命が終わってしまうのです」と詠まれています。  
 
親鸞聖人は、私たちの本来の姿を、無慚無愧と表されました。人間の心の中は、貪り、怒り、偽りといった、自己中心的な想いに満ち満ちており、それを恥ずかしいことであると、気がつくことすら出来ないわたしたちの姿を、厳しく見極められています。だからこそ、そんな心を持つ私たちは、阿弥陀如来より賜る信心を依りどころにしなければ、無慚無愧の身のまま生涯を終わってしまいますと、強い表現でお示しくださっております。  
 
さて、慚愧(ざんぎ)というのは “慚”も“愧”も恥じるという意味です。自分自身を深く恥じる事と、教えに照らされて、恥を知らされる事を表す言葉です。仏法では、 “慚愧無き者は名づけて「人」とせず「畜生」とす”と説かれてあります。私達は普段なんとなく自分を人間だと信じて疑いませんが、仏教は慚愧なき者を畜生と定義しているのです。欲望の庸となり、欲望に狂った時、私達は畜生となっているのです。
 
実際にあったお話ですが、インドのカルカッタというところで、オオカミに育てられた姉妹が発見されました。保護されたばかりの時は、言葉はおろか、お皿を持つこともできず、夜になると遠吠えをする程だったそうです。なんとかコップに水をいれて飲むことは、できるようになったのだそうですが、結局それ以上は、人間らしい生活をする事ができないまま、二人とも数ヶ月で亡くなってしまったそうです。
 
人間は、人間として生まれたからといって、人間らしく生きていける訳ではありません。正しいお育て(導き)に遇い、初めて人間らしく生きていく事ができるのです。正しいお育ての中で、自らの愚かさ、恥ずかしさを知り、慚愧の心をもって生きていくことが、本当に人間らしい生き方なのだと思います。そして、「愚かな心は凡夫であるから仕方がない」と、自らを正当化してしまうのではなく、この身の愚かさを知らせてくださった、如来様のはたらきを慶び、愚かな凡夫が、大いなる如来様のお徳の中に、生かされていることを、感謝し生きていくことが、念仏者の姿なのだと思います。   合掌

 

 

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