ホーム>立徳寺だより>法話>真実と不真実
法話

真実と不真実

 かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 

              天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつト占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす 

   

この御和讃は、親鸞聖人が自らを愚禿(愚かな者)と名のり、自分自身も含めて、人間の愚かな姿、不真実の姿への、悲しみ嘆きの想いを詠まれた御和讃です。「出家者も、在家の者も、日時の善悪や吉凶を気にして、天地の神々を崇拝し、占いなどを真実と思い励んでいる姿は、なんとも悲しいことです」と詠まれています。
 
この御和讃は今から約七百年前に作られた御和讃ですが、現代の人々と、なんら変わりのない姿を表されています。「良日吉日えらばしめ」というのは、占いや迷信によって、この日は良い日、悪い日と心配している姿です。私は僧侶になって十二年になりますが、友引の日に、通夜の勤めをしたことは、いまだかつて一度もありません。ほぼ社会常識のようになってしまっていますが、友引の通夜は、友を連れて行くという心配から、忌み嫌われ、友引に通夜を行うことはまずありません。
 
それはまったく関係のないものなのです。友引に通夜をしなかったからといっても、私たちは、いつか必ず死んでいかなければなりません。迷信には耳を傾けても、その現実からは、どうしても眼をそらせがちなのが、私たちです。
 
占いを信じ、神様などにお願いをするのも、どうにかして死や病といった苦しみを避け、幸福な人生を送る術を捜し求めている、私たちの姿なのでしょう。しかし、私たちのそういった願いの中には、我執という、自己中心的な悪い心が必ず入ってしまっているのです。
 
ある方は、毎日お仏壇の前で、家族の健康を仏様やご先祖様にお願いをしていると、おっしゃっていました。一見すばらしい願いのように思えますが、そこには、私の大切な人、私が好きな人には、健康であって欲しいけれども、知らない隣の家族のことは、知ったこっちゃない。私が嫌いな人の健康なんて、思ってもみないという、悪が存在するのです。
 
幸福を願わない人はいません。しかし、自分の幸福のためなら他人はどうなっても知らないというのは、決してほんとうの生き方ではありません。親鸞聖人は、迷信や占いにすがり、我執の入った願いを繰り返す私たちを嘆き悲しみながらも、自らの姿とも重ねられ、不真実なるものを、あたかも真実と思い続けている愚かな私が、真実に目覚めていく道を勧めてくださっているのです。
 
真実とは因果の法ともよばれ、自然の道理を表します。人が必ず死んでいかなければならないのも真実です。因と縁(条件)がそろえば、病や別れに遇わなければならないのも真実です。お釈迦様がお悟りになられたのは、まさにこの自然の道理なのです。
 
私たちが、この真実に正しく眼をむけ、しっかりと受け入れていくことは、とても大切なことではありますが、実際に、親しい人との別れや病に直面した時には、悲しみや苦しみといった苦悩が存在します。真実をそのまま受け入れることができれば、苦悩は存在しませんが、なかなか出来ることではありません。
 
しかし、その苦しみや悲しみの中に意味を見出していくことはできるはずです。それは、別れの悲しみや、病の苦しみも、すべては私を阿弥陀如来のみ教えに出遭わせていただくための助縁であり、苦悩と思っていたものも、私をお浄土へ向かう人生へと、導いてくださっている働きなのです。
 
仏法は苦しみや悲しみに正面から立ち向かっていける、勇気をもつことのできる教えです。占いや神頼みといった不真実に逃げてしまうのではなく、どんなことに遇っても、恐れることなく受け止め、すべての物事をおかげさまと仰いでいくことができるのです。     合掌
ページ上部へ