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法話

願われた仏の子ども

月々の法話では、ご和讃を聴かせていただきます。和讃とは浄土真宗を開かれた親鸞聖人が、教えの中でとても大切なことを、漢文を読むことのできない人々のために誰にでも判る様に七五調の親しみやすい和文で書かれたものです。今月号で聴かせていただくご和讃は高僧和讃の中の一首です。

ぜいのちからをかむらずば

いずれのときにか娑婆しゃばをいでん

仏恩ぶっとんふかくおもいつつ

つねに弥陀みだねんずべし

弘誓のちから、阿弥陀如来のご本願のお力をこうむらなければいったい、いつ娑婆の世界、この私たちが生きている苦しみの世界を出ることができるであろうか、そう考えると、仏さまのご恩を深く思って念仏を申さねばならないと、詠まれたご和讃です。

 この仏恩深くおもいつつと、詠まれたところが、聖人が一番おっしゃりたかったところなのではと思います。仏恩とは仏さまからのご恩の事です。いったいどのようなものなのか考えてみたいと思います。

 私には2歳半になる娘がおります。半年ほど前だったでしょうか、オムツを替えるため、娘をつかまえて、パンツを脱がしたのはよかったのですが、何だか開放感でもあったのでしょうか、走り回ってオムツをはこうとはしてくれません。「じっとしてて」と叱ると、娘は一言、「お父さん嫌い」と・・。

私には結構ショックな言葉で、その日一日は落ち込んでいました。反抗期なのかなと、インターネットでいろいろ調べているうちに、ある小児科医の先生の記事が目に留まりました。そこにはこんなことがかかれてありました。

“親が子供を愛していると、子供は親に反抗できる。子供は親が自分を無条件に受け入れることを知っているから、「パパ嫌い」とか平気で言えるわけであり、親は絶対に自分を捨てないという確信があれば、悪い子になれるし、反抗もできる。親が子供を充分に愛していなければ、子供は親に反抗できない。子供は親から見捨てられると生きていけないので、親が見捨てるぞと脅せば、親の顔色を窺うようになる。だから、親の言いつけを守る手間のかからない子になる。しかしそこには本当の信頼関係や愛情は生まれないのです”

 正直、この記事を読んで、なんだか複雑な気持ちになりました。娘の反抗は私に対する安心の現れだったのか、ということは、私が娘を愛しているうちはずっと、反抗する子供になるのかと、考えずにはおれませんでした。しかし、そうこう考えているうちに、私の親も今の私のように悩んでいてくれたのかと思うと、なんだか嬉しくもなってきました。

 どれだけわが子が悪い子供であっても、わが子であるからこそ、無条件で受け入れ、わが子であるからこそ、決して見放さない。わが子であるからこそ、悪い子供であるのが悲しいと、包み込んでくれる親の中で、子供は悪い子供であったことを気づくことができる。そして安心して生きていけるのでしょう。

 阿弥陀如来様のお心もまさにこの親心であるように、決して見放さない無条件の救いが阿弥陀如来様のお救いであります。そのお慈悲の親心は、私たち凡夫を「必ずお浄土へ連れて行くぞ、いつでも、どこでも、そばにいるぞ、決して一人ではないのだぞ」と、どこまでいっても愚かな私、ともすれば見捨てたくなるほどの私であっても、わが子であるのだから救わずにはおれないというお心なのです。

 
その無条件のお心こそが仏恩なのです。私たちは、普段、一人で生きている、一人で何とかなると思い生きているところがあります。もし誰も私を救ってくださる方がおられないならば、私を捨てるかもしれない仏さまであったならば、今よりももっと必死のおもいで自分自身を見つめ直せるかもしれません。しかし、それでは大きな安心のなかで人生を送ることはできないことでしょう。
 
阿弥陀如来様の無条件のお心が、そしてその願いこそが、この人生を大きな安心の中で生きていく道であり、私が仏に成らせていただける唯一の道なのです。
 
 鬼のような人と言いますが鬼ではありません。まして仏のような人と言いますが、仏ではありません。私たちはみな一人一人が、阿弥陀如来様(真実の親さま)に願われた仏の子どもなのです。                            
                        合 掌

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