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立徳寺だより

最近親しい人を亡くされた方へ

大切な方を失われ、深いご悲嘆の事と、哀心よりお悔やみ申し上げます。
亡き方は私たちにたくさんのものを残してくださいました。ご生前のご苦労はもとより、
私たちはどんなに愛しい人であっても、必ず別れていかなければならないことを、
自らの死をもってお示しくださっているのです。
 
いまや故人は、阿弥陀如来様のみ手に抱かれて、仏となっておられることでしょう。
仏様の教えの中には倶会一処(くえいっしょ)という教えがあります。
またひとところで善き人と会うという意味です。私たちも、いつか必ず人間の命を終える時が来ます。
その時には、今度は仏同士として、お浄土でお会いすることができるのです。
それまで、先に仏となっていつでも私たちを心配し、見守り続けてくださっているのです。
 
仏になられた方が、私たちが悲しむ姿を見て、どうしてお喜びになるでしょうか。
それよりも、いつでも仏となって傍にいてくださるのだと、心の糧として、
この人生を感謝のお念仏の中で精一杯生き抜いていく、そんな姿を見られた時に初めて、
故人はお喜びになるのだと思います。
 
親しい人を亡くすことは、とても大きな悲しみです。
しかし、その悲しみを、ただただ悲しみのまま終わらせないでください。
その悲しみの中から皆さんに、心強さを気付いていただきたいのです。
 
「あなたに会えてよかった。あなたのおかげで本当に良い人生でありました。
今度はお浄土でお会いしましょう。それまで、あなたの分まで、精一杯生き抜いていきますよ。
いつでも見ていてくださいね」と、悲しみを心強さに変えていくことが、亡き方の死を無駄にしないということです。
 
そして、残された皆様が、この悲しみや苦しみを御縁として、
仏様の教えを聞かさせて戴く身になることが何よりも大切なことなのです。
 
 
皆様に「千の風になって」という詩をご紹介します。
 
 
 
私の墓石の前に立って 涙を流さないでください。
 
私はそこにはいません
 
眠ってなんかいません
 
私は1000の風になって 吹き抜けています
 
私はダイアモンドのように 雪の上で輝いています
 
私は陽の光になって 熟した穀物にふりそそいでいます
 
秋にはやさしい雨になります
 
朝の静けさのなかであなたが目覚めるとき
 
私はすばやい流れとなって駆け上がり
 
鳥たちを空でくるくると舞わせています
 
夜は星になり、私はそっと光っています
 
どうか、その墓石の前で泣かないでください
 
私はそこにはいません
 
私は死んでないのです
 
                   (訳 南風椎)
 
 お葬儀の後、火葬をし、ご集骨をいたします。
ご遺骨は故人を支えてくださった大事なお骨ですから、大切に拾わせていただいたことと思います。
しかし、故人はそのお骨のある、お墓の中にはおられるわけではありません。
まして草葉の陰などにおられるわけでもありません。
 
お浄土という命の故郷で仏となって、「安心して生きてください。いつでも傍にいるのですよ。
どうぞ気付いてください」と、時には風になり花になり、光となって、私たちをその命の故郷に生まれる、
お浄土の道へと導いていてくださっているのです。

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坊守プロフィール・・・毛利法子(もうりのりこ) 法名 釋法蓮   

           俳号:伊東法子 ホトトギス同人 第13回日本伝統俳句協会新人賞受賞

        

 

 

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栗剥げばこんなに小さくなりにけり

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 先日、新鮮で大きな生の栗をたくさんいただきました。日頃から、お寺というものは頂きものが多く、本当に有難く思います。さて、栗ですが、実は私は生の栗の皮を剥いたことがありません。

 数年前、友人が栗の皮を剥いて、包丁で指を深く切り、漫画家なのに仕事がしばらく出来なかったという話を聞いて、怖くなってしまっていたのです。でも、これもせっかくの縁。人生初の栗の皮、剥いてみようではありませんか。と、勇んで栗に入刀。すると思っていたよりずっと固いのです。鬼皮と言うだけあり、固いにも程があるほど固い。しかもその下の渋皮もなかなか手ごわく、実にぴったりとくっついてしまっています。私のイメージでは、甘栗の皮のようにある程度刀を入れれば、後はするすると剥けるのかと思っていましたが、とんでもない。一刀一刀少しずつ地道に剥くしかないのです。まさに忍耐と努力。

 剥き終わった後、栗を見ると、皮があったものに比べて驚く程小さくなってしまいました。外が明るいうちに始めた栗剥きでしたが、栗ご飯が出来るほど剥いた頃には、外は真っ暗になってしまいました。炊飯器にセットして後は待つだけ。炊けた栗ご飯はかなり栗の多いごはんでした。おかずは他に作ることは出来ませんでしたが、これぞ贅沢な食事と言うものでしょう。何とも豊かな気持ちになった夕食でした。

 

宗教は本当の幸せへの導き

 先日、インターネットでこんな記事を読みました。何年か前に、中東でちょっとした事件があったそうです。車で通行中の日本の商社マンが、道路で警備をしていた兵士に職務質問をうけました。名前を聞かれ、免許証の提示を求められた後で、「あなたの宗教は何ですか?」と尋ねられました。商社マンは「えーっと・・・」と口ごもって答えられないでいると、即座に逮捕されたのです。中東は信仰する宗教によって、立場が大きく違いますから、自分の宗教を答えられないような人間は「こんな怪しい奴はいない!」ということになったのでしょうか。政府の機関の人が、あちこち走り回って日本の宗教事情を説明し、ようやく釈放されたそうです。日本の道路で、これと同じような検問をしたら、さぞかしゾロゾロと逮捕されることでしょうね。

 「うちの家の何宗だったかな」くらいならまだしも、「私は無宗教だ」とか「神も仏も、私には関係ない」と大声で公言している人もいます。現代の私たちは、物の豊かさと引き換えに、人間の視点でしか、ものを見られなくなっていることが原因かもしれません。自らの幸せを求めては、すべてのものを損得勘定ではかり、実際に見えないものや、直接自分に利益のあると思えないものには、わざわざ目を向けようとしません。「宗教がなくても生きていける」、「宗教は法事や葬式の時のもの」、といった、宗教の中にある、本当の幸せへの導きを見失いつつあります。自らの死の問題や、人間の根本的は苦悩に答えを与えようとする、仏様の存在を見失っていては、いかに幸せになりたいと考えてみても、あまり意味のないことのように思えます。

 本当の幸せとは、辛さや苦しみ、悲しさの正反対ではありません。かといって楽しさや嬉しさと同じものとも言えないと思います。言うなれば、失意のどん底にあって、なお、しみじみと味わえるほのかな生きる喜びといったようなものではないでしょうか。人間は本来、普段は気が付きにくい不安や虚しさを抱えています。自らの死や病、別れの悲しみなどに直面した時には、その不安があらわになり、無力感や恐怖が人間を襲います。その時、その苦悩を包み込んで、人間に生きる力を与えるのは人間以上のもののはたらきであるはずです。人間ではどうしようもできないところに差し伸べられている救いによって道が開けてくるのです。仏様の願いは「どうしてもしあわせにしたい」「なんとしても気づいてほしい」という、とても強い願いです。その願いのはたらきによって、胸が裂けるような悲しみや痛みに苦しむ人が、「なぜ自分だけ」と虚しく悲嘆にくれるのではなく、その苦しみを転じて生きる喜びや、幸せを見つけることが出来るのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏のお念仏はどういう意味?

 皆様は今まで何回お念仏をされてこられましたか。それこそ数えきれないという方もおられるかもしれません。先日、お寺に南無阿弥陀仏のお念仏について尋ねてこられた方がおられました。「南無阿弥陀仏はどういう意味ですか?」
 
「念仏(南無阿弥陀仏)は親の呼び声、子の返事」といいます。阿弥陀様という仏様は、いつでもどこでも誰にでも声をかけてくださっています。その声(南無阿弥陀仏)、言葉の内容は「たとえどんなことがあっても、あなたを見捨てないよ、あなたと私はいつもいっしょだよ、だから何の心配もせずに堂々と自分の人生を歩んでいきなさい」というものです。
 
 さて、この南無阿弥陀仏のお念仏を親鸞聖人は「本願招喚の勅命」とおっしゃいました。勅命とは断ることのできない命令をいいますが、阿弥陀如来様が私に念仏させていると示されたところです。阿弥陀様が私に念仏させているとは、どういう事でしょうか。
 
 私には二人の子どもがおりますが、現在長女は中学一年生です。幼い頃は私の事が大好きで、いつも私の後をついて歩いていました。いわゆるお父さん子でした。寝るのも、お風呂も、遊ぶのも、いつも私と一緒です。あまりに私の方ばかりにくるので、妻はなんだか不満そうな毎日でした。そんなある日、我が家で事件が起きました。三歳の娘がトイレに入って、内側から誤って鍵をかけてしまいました。誤ってかけたものですから、開け方が分からず、泣きながら助けを呼んでいました。「怖いよー。鍵が開かないよー、助けてー、お母さーん!」と。
 
 妻はその一言でそれまでの鬱憤が晴れたと言っておりました。あんなにお父さん子の娘が、どうしてお母さんを呼んだのでしょうか。どんなに私の好きであっても、本当に困った時には、仕事で家にいるかどうかも分からない私の名前は呼びません。呼べば必ず来てくれる人、いつでも必ずそばにいてくれる人の名前を呼んだのです。確かに呼んでいるのは娘の声ですが、呼ばせているのは母の愛です。
 
 南無阿弥陀仏のお念仏も同じです。お念仏申しているのは私の口であっても、念仏せしめてくださっているのは阿弥陀如来様のお慈悲です。親鸞聖人が本願召喚の勅命とおっしゃたのは、その阿弥陀様の親心のようなお慈悲をお示しくださったのです。
 
 阿弥陀様はいつも、どこでも私と共におられます。そしていつも「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀仏」のお念仏、私への呼び声となって、私の口から出てくださいます。その声を私の耳で聞いていくとき、私と阿弥陀様はひとつとなり、まわりの人々とともに人生が
広がるのです。苦難にみちた人生をわかってくださる真実の親様、阿弥陀様といつも一緒ですから、悲しみは半分に喜びは倍になるのです。南無阿弥陀仏の声となって寄り添ってくださる仏様です。

本当のこころのよりどころ

 突然ですが、皆様は、何を心のよりどころとして生きていますが。支えや頼りにしているもののとです。そして、それは本当に頼りにできるものでしょうか。
 
 仏教を開かれたお釈迦様の教えの中に、次のようなご説法があります。「モズという鳥は、秋の間、せっせと餌を集めるが、それを木の枝に突き刺しておく癖がある。寒い冬の日のために蓄えているつもりなのです。けれども愚かなモズは、餌を突き刺した場所を確かめるのに、空を見上げて、雲を目印にしている。あの形の雲の下に入れば、この餌にありつけると思っているのです。ですが、雲は動くものだから、せっかく集めた餌をみつけることが出来ずに無駄になってしまう。結局、哀れなモズはひもじい冬を過ごす結果になってしまった。」という内容のものです。
 
 お釈迦様は、モズの例えで何を教えようとしておられたか分かりますでしょうか。それは、移り変わっていくもを心のよりどころとし、頼りにして生きていては、結局は虚しい人生に終わってしまうということです。
 
 よくよく考えてみますと、私達が頼りに思い、よりどころ、支えにしているものは、移り変わっていくものがほとんどではないでしょうか。例えば財産もそうです。努力することで増えもしますが、一瞬で失くしてしまうこともあります。身体にしても、まったく予想もしない時に、けがをしたり、病気になったりすることもあります。夫婦や親子、家族や友人も永遠にあり続けるものでは決してありません。いつかは必ず別れていかなければならないのが道理です。移り変わっていくものと言わざるを得ません。このような、移り変わっていくものに目を奪われてばかりいては、結局失くした苦しみや悲しみの中に終わってしまうことになります。
 
 親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫火家無常の世界はよろずのことみなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」とお示しくださいました。無常の世界では、たくさんのものを手に入れたい、永遠に持ち続けたいと願ってみても、いつかは必ず移り変わっていくものです。ですから決して変わることのない、阿弥陀如来様のお救いをこころのよりどころとしなさいと教えてくださっているのです。
 
 決して変わらないものを真実と言い、どうしても移り変わっていくものを不真実と言います。まして私たちは、生まれたからには必ず死んでいかなければなりませんから、私達の周りにあるものは、結局置いていかなければならない不真実なものばかりです。だからこそ、たとえいつかは必ず命を終えていくとしても、死んで終わりでない命を生きていること、別れても必ずまたお会いすることのできる世界があることを、こころのよりどころとさせていただくのです。そのこころのよりどころによってこそ、虚しく終わることない人生を生きることが出来るのです。 合掌

人間の愛と仏様の慈悲

 皆さんは最近「愛してるよ」と言ったことや、言われたことがありますか。私も、とんと言うことも聞く事もなくなりましたが、これは日本人の性格によるものでもあるようです。日本人は世界の中でも、とてもシャイな人種です。アメリカでは八十、九十歳になるおじいちゃんおばあちゃんも「アイラブユー」と日常茶飯事のように言っているそうです。夫婦や家族、友達が仲良くいられるひけつは、相手を好きであることを声に出して伝える事が大切です。言われた方はもちろん嬉しいですが、言っている方も自己暗示にかかって、そんなに愛していなくても、言っているうちに愛おしくなってくるそうです。逆にそんなに不満はないけれども、相手のいないところで、悪口ばかり言っていると、だんだん憎らしくなってしまうそうです。ちょっと恥ずかしいですが、皆様も一度チャレンジしてみてはいかかがでしょうか(笑)。
 
 一言で愛と言っても、人間の愛にもいろいろあります。夫婦愛、親子愛、兄弟愛、友人愛もあるでしょう。人の世には愛がなければなりませんが、その愛が深ければ深いほど、結局は悲劇的になってしまうところが、人間の悲しいところであると、仏法では説かれています。お釈迦さまは愛するゆえの苦悩を愛別離苦(あいべつりく)とも怨憎会苦(おんぞうえく)とも名づけられました。
 
 愛別離苦とは愛するものと別れていかなければならない苦しみのことです。どんなに離れたくないと思っていても、ともにあるべき縁が無くなった時は、必ず別れていかなければなりません。恋人に振られることもあり、死に別れていかなければならないこともあります。人間の愛は決して永遠は続かない無常さ故に、愛別離苦という苦しみを伴うのです。
 
 はたまた、怨憎会苦というのは、どんなに愛していても、その愛が裏切られた時、愛が深ければ深いほど大きな憎しみに変わっていってしまう苦しみを指しています。本来、愛とは与えるものであって、貪る愛ではあってはなりません。憎しみや恨み、悲しみに変わってしまうような愛では、必ず苦しみへと向かってしまいます。ですが、一切見返りを求めない愛、決して憎しみに変わることの無い愛というのは、とても難しいものです。
 
 真実の愛とは相手を本当に大切なものと思う心から出てくる慈しみの心です。ですからそれは決して憎しみには変わるはずがないのですが、人間の愛とはどうしてもそこに我が入る愛でありますから、真実の愛とは言えなくなってしますのです。男女の愛一つ取ってみても、恋愛のこじれで起きた殺人事件というのもよく耳にします。誰よりも愛していたはずなのに、その人を手にかけてしまうのです。愛といいながら、結局人間の愛の中心には私がいるのです。
 
 他にも親子愛というのもあります。たしかに親が子を育てているときの献身的な愛情は、仏様の慈悲という言葉に一番近いかもしれません。しかし、その愛ですら、他人の子供までは及びませんし、それどころか、わが子可愛さのあまり、他人の子供をねたんだりすることさえあります。せめて親子や兄弟、夫婦だけでもいたわりあい、守りあって、愛と安らぎの中で過ごしたいものですが、現実にはそれすらも、憎しみ悲しみをもたらす原因になってしまうことが多いのです。まさに仏法に説かれている通り、誰かを愛してあげたい、愛したいと思っても、それがなかなかできない愚かなわが身を知らされるばかりなのです。
 
 人間の愛に対し如来様の慈悲とは、愚かな人間に差し伸べられた愛です。無条件に他を思い、他の苦しみ悲しみを我が心の痛みとして、その人の幸せを自らの願いとしてゆく心は、如来様の慈悲でなければできないのです。人間の愛には限界がありますが、変わることのない如来様の慈悲こそ、真実の愛といえるのです。如来様の真実の慈悲を知る時、人間の愛の限界や自分の無力さを感じながらも、希望と心強さをいただくことができるのです。そして、そんな人間も、命が終わるその時には、如来様と同じ、真実の慈悲のハタラキをする仏様とならせていただいて、その慈悲をもって他のものを愛し抜くことができるのです。
 
 昔の浄土真宗のご門徒の方は、お通夜にお赤飯をたきました。残されていく遺族、家族は心配であるけれども、今度は仏となって、本当の意味で家族を愛し、救うことが出来るのだから、こんな嬉しいことはないじゃないかと、亡き方の死を悲しみながらも、仏に生まれられたことを喜ばれたのです。仏様の慈悲とは、愛すらも自らの苦しみの種となってしまう愚かな私達だからこそ、見捨てることが出来ないと包みこんでくださり、真実の愛に目覚させ、導いてくださるお救いなのです。合 掌

最近親しい人を亡くされた方へ

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 私が僧侶になってから、二十年余り、数えきれないほどのお通夜お葬式を勤めてまいりました。ご遺族の方から「故人は、今どうしているのでしょう」と涙ながらのご質問を受けることがよくあります。残された私達は、親しい人との別れという大きな悲しみの中で、死というものをどのように受け止めていけばいのでしょうか。
 
 まず、亡き方は私たちにたくさんのものを残してくださいました。ご生前のご苦労はもとより、私たちはどんなに愛しい人であっても、必ず別れていかなければならないこと、死とは自然なことであり、死の縁に触れれば、老いも若きも人間の命を終えていかなければならない、無常の理の中に生きていることを、自らの死をもって、人生最後の教えとして、お示しくださっているのです。そして、普段は当たり前と思っていることが、どれほど有難く、すばらしいものであったか、死別という悲しみや寂しさを通してでしか見えてこない、大切なものを気付かせてくださったのです。
 
 いまや亡き方は、阿弥陀如来様のみ手に抱かれて、お浄土で仏となっておられることでしょう。仏様の教えの中には倶会一処(くえいっしょ)という教えがあります。またひとところで善き人と会うという意味です。私たちも、この無常の理の中で生きている限り、いつか必ず人間の命を終える時が来ます。その時には、今度は仏同士として、お浄土でお会いすることができるのという教えです。それまで、先にお浄土という命の故郷で仏となって、「安心して生きてください。いつでも傍にいるのですよ。」と、私たちをお浄土へ生まれる道へと導いていてくださっているのです。
 
仏になられた方が、私たちが悲しむ姿を見て、どうしてお喜びになるでしょうか。それよりも、いつでも仏となって傍にいてくださるのだと、心の糧として、この人生を感謝のお念仏の中で精一杯生き抜いていく、その姿を見られた時に初めて、亡き方はお喜びになるのだと思います。親しい人を亡くすことは、とても大きな悲しみです。しかし、その悲しみを、ただただ悲しみのまま終わらせないでください。その深い悲しみの中から、本当の心強さに気づいていただきたいのです。
 
「あなたに会えてよかった。あなたのおかげで本当に良い人生でありました。今度はお浄土でお会いしましょう。それまで、あなたの分まで、精一杯生き抜いていきますよ。」と、悲しみを心強さに変えていくことが、本当の意味で亡き方の死を無駄にしないということです。そして、残された者が、この悲しみや苦しみを御縁として、仏様の教えを聞かさせて戴く身になることが何よりも大切なことなのです。

 

災いが無くなるご利益

 さて、受験のシーズンがやってきました。このシーズンの風物詩ですが、何とか志望校に合格できますようにと、わらにもすがる想いでご利益を求め、受験生や子供の両親がこぞって、神社へ合格祈願にでかけます。浄土真宗の教えにもご利益はありますが、一般に言われているご利益とは、全く性質が違ったものです。
 
 例えば、この合格祈願を阿弥陀様にお願いした場合、願いをかなえてくださるでしょうか。結論から言うと、残念ながら、かなえてはくださいません。何故かと言うと、私たちの願いというのは、必ずといっていいほど、我執(がしゅう)という心が入ってくるからです。つまり、自分を中心に考えた心から生まれる願いであるからです。この合格祈願の中にも、自分が合格する為ならば、誰かが不合格になってもいいという心があるのです。それこそ、誰か他の人を落としてでも合格したいと願う心と同じだからです。他にも、家族や親戚が健康でありますようにと、ご利益を願う心など、一見すばらしい願いのように思えるものにも、やはり我執という自分中心のこころが入ってきます。自分に縁のある人や、自分にとって都合のいい人は健康でいて欲しい。しかし、隣の家族の健康なんて知ったこっちゃない。自分を悪く言う人の健康なんて考えてみたこともないという姿が見え隠れしますね。一切平等に救うと誓われた阿弥陀様が、そういう、我執の入った願いをかなえてくださるとは、とても思えません。
 
 親鸞聖人が尊敬された、善導大師という、中国のお坊さんが、阿弥陀如来様のご利益をこんな喩え話でお示しくださいました。「たとえば人ありて稲を求めん。まったく藁を望まざれども、稲いできぬれば、藁おのずから得るが如し。」
 
 藁(わら)とはこの世のご利益のことで、稲とは後世を願う心、つまり、阿弥陀如来様の救いにおまかせをする心を表します。稲を得るものは必ず藁を得るのと同じように、阿弥陀如来様の救いを信じる者は、おのずと、この世のご利益をいただけるという意味です。阿弥陀如来様のお救いとは、人間としての命終わる時には、必ず仏として生まれさせてくださるハタラキです。そしてご利益とは、そのハタラキにお任せし、真実の信心を得た人が自然と賜るもので、阿弥陀如来様に祈ってみても得られるものではありません。では、具体的に阿弥陀如来様のご利益とは、どんなものでしょうか。
 
 親鸞聖人は、御和讃の中に、息災延命(そくさいえんめい)という、災いが災いでなくなるご利益を、阿弥陀如来様の教えの中から、お示しくださいました。阿弥陀如来様の教えとは、私達が生きていく上で出会う、老いや病の苦しみ、別れの悲しみなど、全ての事柄に意味を与えてくださる教えです。
 
『癌告知の後で』という本を書かれた、鈴木章子(すずきあやこ)さんという方がおられました。この方は浄土真宗のお寺の奥さんですが、癌を患い、四十七歳という若さで、四人の子供と夫を残して、お亡くなりになられました。しかし、鈴木章子さんは、阿弥陀様の教えに照らされ導かれることで、癌と共に生きる人生が、これほどまでに深く素晴らしいものになるのかと驚くばかりであると、おっしゃいました。まず、癌を患い、明日をも知れない我が身の中で、これさえ手に入れば最高と思っていたものが、どれだけ中途半端なものであったかを知ったそうです。財産も肩書きも家族も、いざという時にはすべて置いていかなければならないものばかり。そこで大切なのは、心にどんな宝物を抱いているかであると思ったそうです。その気付きこそが、仏法にであう導きともなったのです。そして、思うようにならない人生だからこそ、当たり前と思っていたすべてのことが、どれほど幸せなことであったかを、気付くことが出来たのです。
 
 お亡くなりになる、二ヶ月ほど前、自宅で静養されている時のこと。章子さんの夫が「夜、知らないうちにお前が息をひきとっても困るから、同じ部屋で寝よう」と声をかけられました。すると、章子さんは、「あなたが同じ部屋で寝てくださっても、いざというとき一緒に死んでいただくこともできないし、代わって死んでいただくことも、死を延ばすこともできない。一人でいても二人でいても同じこと。それよりお父さん、子どものためにも体を休めてほしいから、二階と下と、別々に分かれて寝ましょう」とお答えになったそうです。章子さんが、その時に書かれた「おやすみなさい」という題の詩をご紹介します。
 
「お父さん、ありがとう。またあした会えるといいね」と手を振る。テレビを観ている顔をこちらに向けて「おかあさん、ありがとう。またあした会えるといいね」手を振ってくれる。今日一日の充分が胸いっぱいにあふれてくる。
 
「お父さん ありがとう」の一言の中には二十年余りの夫婦として共に歩むことが出来たことへの感謝の気持ちもあったでしょう。「またあした会えるといいね」と、切なる思いで願ってみても、間違いなく明日を迎えることが出来るという生命の保証はありません。今夜お迎えが来るのかも知れない。永遠の別れの思いをこめて「おやすみなさい」と、一階と二階に別れて寝たそうです。幸い朝が迎えることが出来た時、このご夫婦は、「お父さん、会えてよかったね」「お母さん、会えてよかったね」と心おどる思いで挨拶をかわされたそうです。 章子さんは「四十六年の人生の歩みの間、こんな挨拶を一度だってしたことがなかった。健康にまかせて、忙しい忙しいの毎日で、うわのそらの挨拶しかしてこなかった。癌をいただいたお陰で、一度一度の挨拶も、まるで恋人のように胸おどらせての挨拶ができるようになった」と、喜びの中で語っておられました。
 
 人生には喜びも悲しみも、愛も憎しみも成功も失敗も、健康も病気も、同じようにとりそろえてくれています。むしろ思うようになることばかりの人生では、幸せが当たり前となり、幸せを幸せといただくアンテナがなくなってしまいます。幸せの中にいながら幸せを感じる事が出来なくなってしまうのは、一番不幸なことかもしれません。思うようにならない人生、悲しみや苦しみによってこそ、聞く耳が開け、アンテナを立てさせていただくことが出来るのです。そして、そのことによって教えに出会い、悲しみや苦しみを積極的に〝ようこそ〟と受けて立っていけるのです。鈴木章子さんは「癌をいただいたお陰で、至る所からご説法が聞こえてくる。肺癌で寝ているこのベッドの上が、如来様のご説法の一等席であった」と涙されたそうです。
 
 苦しみや悲しみに出会ったからこそ、初めて気付くことの出来る大切なことがわかった。そして、これがあったからこそ、お浄土へ生まれてく道に出遇えたのだと、災いと思っていたこと全てを拝む心が生まれる時に、苦しみや悲しみに会ってよし、生きてよし、死んでよし、何が起きようとも阿弥陀様と一緒に生きて、共にお浄土へ生まれていくのだと思うことができるのです。それこそが、災いが災いでなくなる阿弥陀如様のご利益なのです。
 
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